日本語と日本文化


菊花の約(二):雨月物語


 故出雲の國松江の郷に生長<ひとゝなり>て、赤穴宗右衞門といふ者なるが、わづかに兵書の旨を察<あきらめ>しによりて、冨田の城主塩冶掃部介、吾を師として物斈<まな>び玉ひしに、近江の佐々木氏綱に密の使にえらばれて、かの舘にとゞまるうち、前の城主尼子經久、山中黨をかたらひて大三十日の夜不慮に城を乘とりしかば、掃部殿も討死ありしなり。もとより雲州は佐々木の持國にて、塩冶は守護代なれば、三沢三刀屋を助けて、經久を亡ぼし玉へとすゝむれども、氏綱は外勇にして内怯たる愚將なれば果さず。かへりて吾を國に逗む。故なき所に永く居らじと、己が身ひとつを竊みて國に還る路に、此疾にかゝりて、思ひがけずも師を勞しむるは、身にあまりたる御恩にこそ。吾半世の命をもて必づ報ひたてまつらん。

 左門いふ。見る所を忍びざるは人たるものゝ心なるべければ、厚き詞ををさむるに故なし。猶逗まりていたはり給へと、実ある詞を使りにて日比<ひごろ>經るまゝに、物みな平生に迩<ちか>くぞなりにける。

 此の日比、左門はよき友もとめたりとて、日夜交はりて物がたりすに、赤穴も諸子百家の事おろおろかたり出て、問ひわきまふる心愚ならず。兵機のことわりはをさをさしく聞えければ、ひとつとして相ともにたがふ心もなく、かつ感で、かつよろこびて、終に兄弟の盟をなす。赤穴五歳長じたれば、伯氏たるべき礼義ををさめて、左門にむかひていふ。吾父母に離れまいらせていとも久し。賢弟が老母は即吾母なれば、あらたに拝みたてまつらんことを願ふ。老母あはれみてをさなき心を肯け給はんや。

 左門歡びに堪ず。母なる者常に我孤獨を憂ふ。信ある言を告げなば齡も延びなんにと、伴ひて家に歸る。老母よろこび迎へて、吾子不才にて、斈<まな>ぶ所時にあはず青雲の便りを失なふ。ねがふは捨ずして伯氏たる教を施し給へ。赤穴拝していふ。大丈夫は義を重しとす。功名富貴はいふに足らず。吾いま母公の慈愛をかふむり、賢弟の敬を納むる。何の望みかこれに過ぐべきと。よろこびうれしみつゝ、又日來をとゞまりける。

 きのふけふ咲きぬると見し尾上の花も散はてゝ、凉しき風による浪に、とはでもしろき夏の初めになりぬ。赤穴母子にむかひて、吾近江を遁來りしも、雲州の動靜を見んためなれば、一たび下向<くだり>てやがて歸り來り、菽水の奴<つぶね>に御恩をかへしたてまつるべし。今のわかれを給へといふ。左門いふ。さあらば兄長いつの時にか歸り玉ふべき。赤穴いふ。月日は逝きやすし。おそくとも此秋は過ぐさじ。左門云ふ。秋はいつの日を定めて待べきや。ねがふは約し玉へ。赤穴云ふ。重陽の佳節をもて歸り來る日とすべし。左門いふ。兄長必此日をあやまり玉ふな。一枝の菊花に薄酒を備へて待ちたてまつらんと。互に情をつくして赤穴は西に歸りけり。


(現代語訳)
「自分はもと出雲松江で生まれ育ったもので、赤穴宗右衞門というものです。わずかに兵法を学んだおかげで、冨田の城主塩冶掃部介が自分を師としたのですが、近江の佐々木氏綱への密使に選ばれて、その舘に滞在している間に、前の城主の尼子經久が山中党を語らって大晦日の夜に城を乗っ取りました。その際に掃部殿も討死しました。もともと出雲は佐々木の所領であり、塩冶はその守護代だったので、三沢・三刀屋の両勢とともに經久を亡ぼしたまえと進めたのですが、氏綱は外面は勇敢なようで実は臆病でしたので、果しませんでした。かえって私を足止めにしました。そこで私は、由もないところに長居は無用と思い、身一つで脱して国に帰る途中、この病気にかかり、思いがけずもあなたのお世話になりました。身に余る御恩と存じています。ついては我が半生にかけても必ずご恩返しをしたいと思います」

左門が答えて、「あなたの窮状を見て忍びなく思ったのは人情というものです。そんなふうにおっしゃらず、このままご養生してくだされ」と言うと、赤穴は、その言葉を頼りに日を過ごしているうちに、もとの体調に回復したのであった。

この日頃、左門はよき友を得たと思い、日夜話しかけたところ、赤穴も諸子百家のことなどぼちぼち語り出し、その所見には並々ならぬものがあった。赤穴は兵法にも通じていたので、その語るところは左門の心に響き、感心したり喜んだりしたりした挙句、二人は兄弟の契をしたのだった。赤穴は五歳年長であったので、兄としての礼儀に従い、左門に向かって言った。「自分は子どもの頃に両親に死に別れました。あなたの老母は、私の母でもありますから、我が母として拝み奉ろうと思います。母上はわたしの気持ちを受け入れて下さるでしょうか」。

これを聞いた左門は喜びにたえず、「我が母は私の孤独なのを憂えています。あなたの言葉を聞かせてあげれば、寿命も延びましょう」と言いながら、赤穴を伴って家に帰った。すると老母が喜び迎えて、「我が子は不才にして、学問もままならず星雲の志を遂げることができませんでした。是非我が子を見捨てずに教えを垂れてください」と言った。それを聞いた赤穴は、「大丈夫は義を重んじます。功名や富貴は言うにたりません。私はいま母上のご慈愛をこうむり、弟分の敬愛を受けています。これにすぎた望みはありません」と言って、悦びながらまた数日そこに留まったのであった。

昨日今日咲いたばかりに見えた尾上の花も散って、涼しい風に立つ波が白く映る夏になった。赤穴は左門母子にむかって、「私が近江を逃れて来たのは、出雲の動静を見るのが目的でしたので、いったん出雲に行ったあと、すぐに帰って来て、貧しいながらもご恩返しをいたしましょう。しばしの別れをたまわりたい」と言うと、左門は、「ではいつお帰りになるおつもりか」と聞いた。赤穴はそれに応えて、「月日は過ぎやすいが、おそくとも秋を過ぎることはしますまい」と言う。左門がそれに対して、「秋のいつごろになりますか、できたらその日を約束してください」と言うと、赤穴は「重陽の節句の日をその日に決めましょう」と答えた。それに対して左門が、「かならずその日を誤らないでください。その日に一枝の菊花を薄酒に添えてお待ちしましょう」と答え、互いに情を尽くしたうえで、赤穴は西に向かって帰って行ったのだった。


(解説)
左門の看病で病気から回復した赤穴が、自分のそれまでの境遇を左門に語る。そんなふうに語り合っているうちに、二人は親密になる。左門の母親も、息子が立派な人物と友誼を結んだことを喜んでいる。

そのうちに赤穴は、国もとの動静が気になるから様子を見に帰りたいという。ついては、左門への感謝が忘れられないので、それに応えるべく、用が済んだらすぐに戻ってこようと言う。これにたいして左門は、いつ戻ってくるか言ってほしいとただす。赤穴は、重陽の節句の日に戻ってこようと約束する。

重陽の節句とは、旧暦九月九日に行われる中国古来の行事。この日、中国では、別れ別れの家族が一同に会して絆を確かめ合うという風習があった。




  
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