日本語と日本文化


白峰四:雨月物語を読む


 時に峯谷ゆすり動きて、風叢林を僵<たを>すがごとく、沙石を空に卷上る。見る見る一段の陰火、君が膝の下より燃上りて、山も谷も昼のごとくあきらかなり。光の中につらつら御氣色を見たてまつるに、朱をそゝぎたる龍顔に、荊<おどろ>の髪膝にかゝるまで乱れ、白眼を吊りあげ。熱き嘘<いき>をくるしげにつがせ玉ふ。御衣は柿色のいたうすゝびたるに、手足の爪は獣のごとく生ひのびて、さながら魔王の形あさましくもおそろし。空にむかひて相模々々と叫せ給ふ。あと答へて、鳶のごとくの化鳥翔け來り、前に伏して詔をまつ。

 院かの化鳥にむかひ玉ひ、何ぞはやく重盛が命を奪とりて、雅仁清盛をくるしめざる。化烏こたへていふ。上皇の幸福いまだ盡きず。重盛が忠信ちかづきがたし。今より支干一周を待てば、重盛が命数既に盡きなん。他死せば一族の幸福此時に亡ぶべし。院手を拍て怡ばせ玉ひ、かの讐敵ことごとく此前の海に盡すべしと、御聲谷峯に響きて凄しさいふべくもあらず。魔道の淺ましきありさまを見て涙しのぶに堪へず。復び一首の哥に隨縁のこゝろをすゝめたてまつる
   よしや君昔の玉の床とてもかゝらんのちは何にかはせん
 刹利も須陀もかはらぬものをと、心あまりて高らかに吟ひける。

 此のことばを聞しめして感でさせ玉ふやうなりしが、御面も和らぎ、陰火もやゝうすく消えゆくほどに、つひに龍體もかきけちたるごとく見えずなれば、化鳥もいづち去きけん跡もなく、十日あまりの月は峯にかくれて、木のくれやみのあやなきに、夢路にやすらふが如し。

 ほどなくいなのめの明ゆく空に、朝鳥の音おもしろく鳴りわたれば、かさねて金剛經一卷を供養したてまつり、山をくだりて庵に歸り、閑かに終夜のことゞもを思ひ出づるに、平治の乱よりはじめて、人々の消息、年月のたがひなければ、深く愼みて人にもかたり出でず。

 ほどなくして明け行く空に、朝鳥の声が面白く鳴き渡ったので、西行は重ねて金剛経一巻を供養したてまつり、山を下って庵に帰り、しずかに終夜のできごとを思いだしたところ、平治の乱から始めて、人々の消息や年月の順序が実際のことと違いなかったので、深く謹んで人に語ることはなかった。

 其の後十三年を經て、治承三年の秋、平の重盛病に係りて世を逝りぬれば、平相國入道、君をうらみて烏羽の離宮に篭めたてまつり、かさねて福原の茅の宮に困めたてまつる。頼朝東風に競ひおこり、義仲北雪をはらふて出づるに及び、平氏の一門ことごとく西の海に漂ひ、遂に讚岐の海志戸八嶋にいたりて、武きつはものどもおほく鼇魚のはらに葬られ、赤間が関壇の浦にせまりて、幼主海に入らせたまへば、軍將たちものこりなく亡びしまで、露たがはざりしぞおそろしくあやしき話柄なりけり。其の後御廟は玉もて雕り、丹青を彩りなして、稜威を崇めたてまつる。かの國にかよふ人は、必ず幣をさゝげて齋ひまつるべき御神なりけらし。


(現代語訳)
その時、峰や谷が揺れ動いて、風が林をなぎ倒すほど吹き荒れ、沙石を空に卷き上げた。見る見る一塊の鬼火が院の膝の下から燃え上がり、山も谷も昼のように明るくなった。その光の中に院の御様子を見奉るに、朱を注いだように赤いお顔をなさって、茨のような髪が膝にかかるまで乱れ、白目を吊り上げて、熱い息を苦しげに吐かれる。お衣は柿色のいたくくすんだ色合いで、手足の指の爪は獣のように伸びて、さながら魔王のようなありさまであさましくも恐ろしい。空に向かって相模々々と叫ばれると、それに応えて鳶のような化鳥が飛んできて、院の前にかしこまってお言葉を待った。

院がその化鳥に向かわれて、「何故早く重盛の命を奪って、雅仁・清盛を苦しめないのか」と言うと、化烏は答えて言う。「上皇の幸福はいまだ尽きておりません、重盛の忠義には近づきがたいものがあります。今から後干支が一巡すれば、重盛の寿命も尽きましょう。彼が死ねば平家一族の幸福も同時に滅ぶでしょう」。これを聞くと院は手を合わせてお喜びになり、かの仇敵どもことごとくこの前の海に沈み尽くすべしというお声が谷や峰に響き渡って、そのすさまじさは言葉にもならない。西行は、魔道の浅ましさを見て涙をおさえることもならず、再び一首の歌を読んで、仏の道に従われるようすすめ奉った。
  よしや君昔の玉の床とてもかゝらんのちは何にかはせん
そして、王族も庶民も仏の前では変るところはないと、感極まって高らかに吟じたのであった。

院はこの言葉をお聞きになって、感心なされたようで、御表情も和らぎ、鬼火もややうすく消えゆくほどに、ついにお顔もかき消したように見えなくなったので、化鳥もどこへ去ったか後も見えなくなり、十日あまりの月は峰に隠れて、木の茂みが見わけもつかず暗くなり、まるで夢路をさまよっているようだった。

その後十三年を経て、治承三年の秋に、平重盛が病気になって世を去ったので、平相國入道清盛は、君を恨んで烏羽の離宮に幽閉し奉り、重ねて福原の茅の宮に押し込め奉った。頼朝が東風と競うように立ち上がり、義仲が北国の雪を払って出現するに及んで、平氏の一門はことごとく西海に漂い、遂に讃岐の海志戸八嶋に至って、猛きつわものどもは多く魚の腹に葬られ、赤間が関壇の浦にせまっては、幼主も入水されたので、将軍たちも残らず滅びた。院のお話の内容が、それとつゆ違わなかったのは、あやしいことではあった。その後、院のお墓は玉をちりばめ、丹青で彩って、人々はその威容を拝み奉ったのであった。その国に行く人々は、かならず幣を捧げて、いつき奉るということである。


(解説)
生前の恨みを語り終わった崇徳院は、西行から成仏するようにと諭されるが、果してその言葉を受け止めたのか、それは曖昧なままに物語は閉じられる。

西行と崇徳院の間には運命的な係わりがあった。崇徳院の生母待賢門院璋子は、西行の実家が代々仕えてきた徳大寺家の出身であり、西行は幼いころから待賢門院を知っていたばかりか、待賢門院を思慕していたという説もある。西行が二十三歳の若さで出家したのは、待賢門院への恋が破れたからだとする説もある。その待賢門院の子として生れた崇徳院は、父である鳥羽天皇との間で確執を生じ、それが原因となって保元の乱につながったわけである。そうした世の流れを西行はありありと見ていたに違いない。

そんなこともあって、西行が崇徳院に対して特別な感情を抱くのは自然なことである。秋成はそのあたりに着目して、西行と崇徳院の間に、このような物語を構想したと考えられぬでもない。

西行は、崇徳院の霊に向かって、仏の教えにすがることで成仏するように進めている。それは僧としての西行の、ある意味自然な行為であった。ところがその西行からの働き掛けに、崇徳院が素直に応じたとは、この文章からは読み取れない。崇徳院は、非常に自我の強い性格で、そのために身を亡ぼしたわけだが、そうした自我の強さが仏への寄与を、素直には受け入れさせなかった、というふうに、この文章は結んでいるように見える。




  
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