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西行の恋(二):西行を読む |
山家集の恋の部は、月に寄せて恋を歌った一連の歌のあとに、単に恋と題した歌五十九首を載せている。月は愛する人の隠喩だったからこそ、恋の部の歌の多くを、月を歌ったものが占めたわけだが、恋はなにも月を連想させるだけではない。ほかのものを通じても恋は連想されるわけだし、恋の感情そのものをストレートに歌ってもよい。そんなふうに思わせる歌が、月に続いて収められたわけであろう。ここではその中からいくつかを取り出して鑑賞したい。 うち向ふそのあらましの面影をまことになして見るよしも哉(山654) あなたと向かい合ったときに見えるだろうその面影どおりに、あなたの姿を実際に見たいと歌ったもので、これも片恋の歌だろう。月などという媒介物を介さずに、ストレートにあなたの顔を見たいと歌っている。最後にある「哉」は、言葉止めの「かな」と願望を表す「がな」と両方がかかっている。 嘆くとも知らばや人のおのづからあはれと思ふこともあるかな(山657) わたしがあなたを恋するあまりに嘆いているとあなたが知ってくれたら、あなたはわたしを憐れに思ってくださるだろうか、と歌ったもので、自分の片恋に相手が応えてくれることを願ったものだ。 何となくさすがに惜しき命かなあり経ば人や思ひ知るとて(山658) わけもなく命が惜しく思われるのは、生きていればそのうちに、我が愛する気持を相手に知ってもらえるかもしれぬと、期待するからだ、と歌ったもので、自分の切ない思いを、愛する人に知ってほしいとする点で、前の「嘆きとも」に通ずるものだ。 涙川深く流るる澪ならば浅き人目に包まざらまし(山661) 涙川は、夥しく流れる涙の隠喩、それほど夥しい涙が流れればそこが深い川の水路のようになって、誰が見ても泣いているように見えるに違いない、つまり人目を忍ばず思い切り泣きたい、と歌ったものだ。自分の恋があまりにも切ないので、もはやそれを隠そうとも思えなくなった、と半分やけになった気持を歌ったものか。 身の憂さの思ひ知らるることはりに抑へられぬは涙なりけり(山668) 我が恋がかなわぬことは、道理ではわかってはいるが、それでも恋しさがつのるあまりに、涙が抑えられず流れ出てくるのだ、と歌ったものだ。西行はよほど涙に弱かったようだ。かなわぬ恋が切ないと言っては、涙を流している。 何とこは数まへられぬ身の程に人を恨むる心なりけん(山673) 人の数にも入らぬ身とは、僧のことを指す。僧は出家して現世を超越しているのだから、世の中の人の数には入らぬのである。その人の数に入らぬものが、ほかならぬ人を恋しくて恨んでいる。その心のアンバランスを微妙に歌ったもので、西行の恋の歌の中でも秀逸の一首といえよう。 おぼつかな何の報ひの還り来て心せたむるあたとなるらん(山677) わけがわからぬままに、何の因果でこんなにも心をさいなむ仇となるのか、思い悩んでいる、と歌ったもの。因果を持ち出すところが、西行の僧としての面目か。自分の心をさいなむ仇とは、本来は自分の愛するものとしての味方であるべき人のことをさす。西行の複雑で矛盾した気持ちが込められている。 などかわれことのほかなる嘆きせでみさほなる身に生まれざりけん(山689) 自分はどうして、こんな嘆きをしていないで、つれない人にも平然としていられる身に生まれなかったのか、と歌う。つれない恋人には、こちらも平然とした気持で無視できるようになりたいと、西行の逆説的な気持ちがこめられた歌だ。その逆説は自虐にも通じる。 あはれあはれこの世はよしやさもあればあれ来ん世もかくや苦しかるべき(山710) 現世のことはどうなってもよいが、来世もまたこんなに苦しい思いをしなければならないのだろうか、そうだとすると自分はどうしたらよいのか、絶望するほかはない、ときわめて切羽詰った西行の思いが込められている。西行は仏教徒として来世を深く信じていたらしいから、この世のみならず来世でも恋の苦しみに悩むことを恐れたのだと思う。 |
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