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落花:西行を読む


桜は咲くとすぐに散ってしまうものであるから、桜の花の散るさまを歌った歌は多い。万葉集から次の二首をあげてみよう。
  阿保山の桜の花は今日もかも散り乱るらん見る人なしに(1867)
  春雨はいたくなふりそ桜花いまだ見なくに散らまく惜しも(1870)
一首目は、阿保山の桜が見る人もなく散ってしまうのは惜しい、という気持を歌ったものであり、二首目は、桜が見る人もなく散るのは惜しいからあまり強く降らないでくれと春雨に呼びかけている。どちらも桜の花が人知れず散ってしまうのが惜しいという感情を歌ったもので、歌としては非常に素直なものだ。

古今集からは、桜の散るのを歌った歌として、紀友則の次の歌をあげよう。
  ひさかたの光のどけき春の日にしず心なく花の散るらん(84)
長閑な春の光のなかで、どうして桜は静かに咲いていないで散り急ぐのだろう、という気持を歌ったものだ。万葉の先の二首に比べれば、落花を惜しむ気持ちがきめ細かくなったと言えなくもないが、歌としては同じ雰囲気を感じさせる。その雰囲気とは、桜の花の散るのがあまりにも早いために、そこから花の命の短さを惜しむという気持である。その惜しむ気持はひとえに対象である桜に向けられている。

西行も、あまり多くはないが、桜の落花を歌った歌をいくつか作っている。もっとも印象的なものは、「夢中落花」と題した次の歌である。  
  春風の花を散らすと見る夢は覚めても胸のさはぐなりけり(山139)
夢の中で桜の散るさまを見て心の騒ぐのを感じたが、その心の騒ぎは夢が覚めたあとでもずっと続いた。桜の落花が自分の胸をいつまでもこのように騒がし続けている。それは何故だろか、という気持ちがこの歌からは伝わってくる。

こうした感情のひだは、万葉の歌にも、古今の友則に歌にも見られないものだ。万葉以下の歌は、桜の散るのを素直に惜しんでいるが、それによって心が騒ぐことはない。桜の落花と自分の心とは一応違ったあるものなのだ。落花がストレートに心に働きかけることはない。

ところが西行は、桜の落花が直に自分の心に働きかけて、そのため長い間心が騒いだままになっている。それほどまでに桜の落花が西行の心をゆすぶったということである。

これは桜の落花になにか魔術的な作用がなければ起きないようにも思えるし、あるいは西行の心が桜の落花に敏感に反応するようにつくられているとも思える。どちらにしても西行の心と桜の落花は、何ものかによって強く結ばれているのである。

これは一つの解釈だが、西行には遊離魂を信じる傾向があって、桜の落花に遊離魂の隠喩を感じたのではないか。とすれば、桜の花が散ることは、人が死ぬことの隠喩になる。人が死ぬと魂が遊離して行くように、桜が散れば枝を離れた花がやはり遊離魂のようなものとなってそこいらを漂い始める。西行が夢の中で桜の花の散るのを見て心騒いだのは、そこに自分の死の隠喩を見たからではないか。人は自分の死を前にすると心騒がずにはいられないものだ。

落花を遊離魂として捉える見方をもし西行がしていたとすれば、次の歌もそうした見方から解釈できる。
  あくがるる心はさても山桜散りなんのちや身に帰るべき(山67)
あくがるる心とは身体から遊離した魂という意味だが、その遊離魂が山桜の花が散ったあとでふたたび身に戻ってくると言っているわけだ。この歌は、桜の花を見ることで自分の心が桜に引き寄せられるように身から遊離し、花が散ったあとで再び身に戻ってくると言っているのだが、これは、桜にとっての花の散ることと人間にとっての心のあくがるることとが、(魂の出入りという点では)丁度逆の方向を向いているということになる。


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