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春の歌:西行を読む


西行自選の歌集「山家集」の構成は、春以下四季それぞれの部に始まり、恋の部、雑の部と続く。これは基本的には古今集の構成に従ったもので、古今集で賀、離別、羇旅、物名、哀傷、雑とあるものを雑の部としてまとめたものである。歌を四季以下こういう分類基準で構成するのはいわゆる八大集をはじめすべての勅撰和歌集に共通したものであり、歌というものについての日本人の向き合い方が反映されているといってよい。西行もまた、日本人のそうした姿勢に従ったということであろう。

さて、古今集の冒頭を飾るのは、在原元方の歌
  年のうちに春は来にけり一とせをこぞとやいはむことしとやいはむ(古1)
である。あまりにも有名なこの歌には、古来しっかりした解釈が施されてきたので、ここでそれを繰り返すまでもあるまい。旧暦では、年が変ってから立春が来るのが理想だが、実際にはこの歌にあるような事態が珍しくなかった、とだけ言っておこう。

西行もこの歌を意識して、年の交代を歌った歌を「山家集」の冒頭に置いている。
  年暮れぬ春来べしとは思ひ寝にまさしく見えてかなふ初夢(山1)
これは初夢を読んだものである。古い年が暮れて新しい年を迎えるに相応しい初夢を見たいと思いながら寝たところが、思い通りにいい夢を見た、という趣旨の歌である。果たしてどんな夢か。

そのヒントは、この歌の本歌と思われる凡河内躬恒の歌にある。
  君をのみ思ひ寝に寝し夢なればわがこころから見つるなりけり(古608)
君を思いながら寝たというのは、恋人の面影を追いながら寝たということであろう。だからこれは恋を読んだ歌と言える。そうした歌を本歌としているわけだから、西行のこの「山家集」冒頭の歌は、初夢早々思い人にあう夢を見ることができた、という喜びを歌っているのである。恋の喜びはいかにも新年を飾るに相応しいことと言えるが、では西行が恋した思い人とは誰なのか。そんな疑問が浮かび上がってくる。「山家集」という歌集には一筋縄ではいかないところがあるとかねがね指摘されているが、冒頭からしてこのように意味深長な歌が置かれているわけである。

歌集の冒頭を飾る数首の歌の中にはもっとわかりやすいものもある。
  立ちかはる春を知れとも見せがほに年を隔つる霞なりけり(山4)
これは、古い年と新しい年の両方にまたがって世の中が霞んでいるさまを歌ったものである。年の交代は、断絶と連続を二つながら感じさせるが、その連続性を自然現象たる霞によってあらわしている。古今集冒頭の歌は、年のうちに春が来たといって、断絶のなかに連続を見、どっちつかずの曖昧な感じをヒョウキンに表しているわけだが、山家集のこの歌は、年の連続を自然現象になぞらえて素直に歌っているわけである。

霞はまた春の象徴でもあった。そこから次のような歌が生れた。
  霞まずは何をか春と思はましまだ雪きえぬみ吉野の山(山11)
ここでの霞は桜の花の隠喩ではなく、文字通りの霞である。その霞は春の象徴であるから、それがかかっている吉野山にも春が訪れたのだと知れる。もしも霞がかかっていなかったら、吉野に春が来たとは気がつかなかっただろう。なにしろ山の上にはまだ雪が残っているから。これはそんな気持をあらわした歌である。


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