日本語と日本文化


福原院宣:平家物語巻第五


伊豆国奈古屋に住み着いた文覚は、蛭が小島の頼朝を足繁く訪れては、平家打倒の説得をした。しかし頼朝がなかなか立ち上がろうとしないので、文覚は一計を労す。頼朝の父義朝の髑髏だというものを取り出して、父親の無念をすすぐ為にも平家打倒の謀反を起こすべきだと迫る。これには流石の頼朝も心を動かされる。

~近藤四郎国高といふものに預けられて、伊豆国奈古屋がおくにぞ住みける。さる程に、兵衛佐殿へつねは参つて、昔今の物がたりども申してなぐさむ程に、或時文覚申しけるは、「平家には小松の大臣殿こそ、心も剛に、はかり事もすぐれておはせしか、平家の運命が末になるやらん、こぞの八月薨ぜられぬ。いまは源平のなかに、わどの程将軍の相持つたる人はなし。はやはや謀反おこして、日本国したがへ給へ」。兵衛佐「思ひもよらぬ事の給ふ聖御房かな。われは故池の尼御前にかいなき命を助けられたてまッて候へば、その後世を弔はんために、毎日に法花経一部転読する外は他事なし」とこその給ひけれ。文覚かさねて申しけるは、「天のあたふるを取らざれば、却つて其咎をうく。時いたッておこなはざれば、却つて其殃をうくといふ本文あり。かう申せば、御辺の心をみんとて申すなンど思ひ給ふか。御辺に心ざし深い色を見給へかし」とて、ふところより白い布につつむだる髑髏をひとつとり出だす。

~兵衛佐「あれはいかに」との給へば、「これこそわどのの父、故左馬頭殿のかうべよ。平治の後、獄舍のまへなる苔のしたにうづもれて、後世とぶらふ人もなかりしを、文覚存ずる旨あッて、獄守に乞うて、この十余年頸(くび)にかけ、山々寺々拝みまはり、弔ひ奉れば、いまは一劫もたすかり給ひぬらん。されば、文覚は故守殿の御ためにも奉公のものでこそ候へ」と申しければ、兵衛佐殿、一定とはおぼえねども、父のかうべと聞くなつかしさに、まづ涙をぞながされける。


心を動かされた頼朝だが、勅勘の身では謀反など起こせないと、まだ躊躇している。そこで文覚は、自分が勅勘の許し状をとってくるからといって、蟄居先へは修行のために山にこもると言い置いて、福原まで往復し、後白河法皇の許し状を持って頼朝のもとへ戻る。その状には、頼朝宛に、朝敵である平家を退けよと書いてあった。

~其後はうちとけて物がたりし給ふ。「抑頼朝勅勘を許りずしては、争か謀反をばおこすべき」との給へば、「それ安い事、やがて上ッて申しゆるいて奉らん」。「さもさうず、御房も勅勘の身で人を申しゆるさうどの給ふあてがいやうこそ、大きにまことしからね」。「わが身の勅勘をゆりうど申さばこそ僻言ならめ。わどのの事申さうは、なにか苦しかるべき。いまの都福原の新都へ上らうに、三日に過ぐまじ。院宣伺はうに一日が逗留ぞあらんずる。都合七日八日には過ぐべからず」つき出でぬ。奈古屋に帰つて、弟子共には、伊豆の御山に人に忍んで七日参籠の心ざしありとて、いでにけり。

~げにも三日といふに、福原の新都へのぼりつつ前右兵衛督光能卿のもとに、いささかゆかりありければ、それに行いて、「伊豆国の流人、前兵衛佐頼朝こそ勅勘を許されて院宣をだにも給はらば、八ケ国の家人ども催ほしあつめて、平家をほろぼし、天下を鎮めんと申し候へ」。兵衛督「いさとよ、わが身も当時は三官ともにとどめられて、心ぐるしい折節なり。法皇もおしこめられてわたらせ給へば、いかがあらんずらん。さりながらも伺うてこそみめ」とて、此由ひそかに奏せられければ、法皇やがて院宣をこそ下されけれ。聖これをくびにかけ、又三日といふに、伊豆国へ下りつく。

~兵衛佐「あつぱれ、この聖御房は、なまじゐによしなき事申しいだして、頼朝又いかなる憂き目にかあはんずらん」と、思はじ事なう案じつづけておはしけるところに、八日といふ午剋ばかり下りついて、「すは院宣よ」と奉る。兵衛佐、院宣ときく忝けなさに、手水うがひをし、あたらしき烏帽子・浄衣きて、院宣を三度拝してひらかれたり。
項年より以来、平氏王皇蔑如して、政道にはばかる事なし。仏法を破滅して、朝威をほろぼさんとす。夫我朝は神国也。宗廟あひならんで、神徳是あらたなり。故に朝廷開基の後、数千余歳のあひだ、帝猷をかたぶけ、国家をあやぶめむとする物、みなもッて敗北せずといふ事なし。然れば則ち且は神道の冥助にまかせ、且は勅宣の旨趣守つて、はやく平氏の一類を誅して、朝家の怨敵をしりぞけよ。譜代弓箭の兵略を継ぎ、累祖奉公の忠勤を抽んで、身をたて、家をおこすべし。ていれば、院宣かくのごとし。仍て執達如件。
       治承四年七月十四日    前右兵衛督光能が奉り
  謹上前右兵衛佐殿へ
とぞ書かれたる。此院宣をば錦の袋入れて、石橋山の合戦の時も、兵衛佐殿頸にかけられたりけるとかや。


文覚が伊豆と福原を往復し、許し状を持参するのにわずか八日しかかかっていない。片道三日ずつで六日、それに逗留の二日を加えた八日である。徳川時代の日記類などによれば、江戸・京都間は、平均二週間くらいかかっている。それを三日で行ったのだから、早わざといえよう。こんなところにも、文覚の異常な能力が強調されている。




  
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