日本語と日本文化


能登殿最期:平家物語巻第十一


安徳天皇が、祖母と共に入水した後、母の建礼門院も海に飛び込んだが、源氏方の侍に熊手で髪を引っ掛けられ、船に引き上げられてしまう。その後、教盛・経盛兄弟、資盛・有盛兄弟など平家一門の人々が、手に手をとって次々と海中に身を投じて死んだ。宗盛・清宗父子は、死に切れずにためらっていたところを、家臣によって海に突き落とされた。それでも彼らは、泳ぎの心得もあったりして、なかなか死なないでいる。そこを源氏方によって船に引き上げられ、生け捕りにされてしまう。

そんななかで、能登守教経は今日を最後と、ひとり奮戦していた。「能登殿最期」の章は、そんな教経の奮戦振りを語る部分である。

前半では、敵の対象義経を追いかけるところが語られる。さすがの義経も、教経の勇猛振りにはかなわないと見て、船から船へと逃げ回る。「八艘跳び」と呼ばれる段だ。

後半は、義経に逃げられた教経が、甲や草ずりを脱いで腹巻だけの姿になり、大音声を上げて名乗ったあと、向かってくる敵を両脇に抱え、共に海へ飛び込むところが語られる。

~凡そ能登守教経の矢先にまはる物こそなかりけれ。矢だねのある程射尽くして、けふを最後とや思はれけん、赤地の錦の直垂に、唐綾おどしの鎧て、いかものづくりの大太刀ぬき、白柄の大長刀のさやを外し、左右にもッて薙ぎまはり給ふに、おもてをあはする物ぞなき。多くの物ども討たれにけり。新中納言使者をたてて、「能登殿、いたう罪なつくり給ひそ。さりとてよき敵か」との給ひければ、「さては大将軍に組めごさんなれ」と心えて、うち物茎短にとッて、源氏の船にのりうつりのりうつり、喚きさけむで攻め戦ふ。判官を見しり給はねば、物の具のよき武者をば判官かと目をかけて、馳せまはる。

~判官もさきに心えて、おもてにたつ様にはしけれども、とかく違ひて能登殿には組まれず。されどもいかがしたりけん、判官の船にのりあたッて、あはやと目をかけてとんでかかるに、判官叶はじとや思はれけん、長刀脇にかいばさみ、御方の船の二丈ばかり退いたりけるに、ゆらりととびのり給ひぬ。能登殿は早業やおとられたりけん、やがてつづいてもとび給はず。今はかうと思はれければ、太刀長刀海へなげ入れ、甲もぬいですてられけり。鎧の草摺かなぐりすて、胴ばかりきて、大童になり、おほ手をひろげてたたれたり。凡そあたりを払つてぞ見えたりける。恐ろしなンども愚也。能登殿大音声をあげて、「われと思はん物どもは、よッて教経に組でいけどりにせよ。鎌倉へくだッて、頼朝に逢うて、物ひと詞いはんと思ふぞ。よれやよれ」との給へども、よる物一人もなかりけり。

~ここに土佐国の住人安芸郷を知行しける安芸の大領実康が子に、安芸太郎実光とて、卅人が力もッたる大ぢからの剛の物あり。われにちッともおとらぬ郎等一人、弟の次郎も普通にはすぐれたるしたたか物なり。安芸の太郎、能登殿を見奉つて申しけるは、「いかに猛うましますとも、我等三人とりついたらんに、たとひたけ十丈の鬼なりとも、などかしたがへざるべき」とて、主従三人小船に乗つて、能登殿の舟に押しならべ、ゑいと言ひてのりうつり、甲のしころを傾け、太刀をぬいて一面にうッてかかる。

~能登殿ちッとも騒ぎ給はず、まッさきにすすんだる安芸太郎が郎等を裾をあはせて、海へどうど蹴入れ給ふ。つづいてよる安芸太郎を弓手の脇にとッて鋏み、弟の次郎をば馬手のわきにかいばさみ、一締しめて、「いざうれ、さらばおれら死途の山のともせよ」とて、生年廿六にて海へつッとぞ入り給ふ。


平家一門は、すっかり公卿化したおかげで、戦いにはふがいないが、ひとり教経だけは、勇猛さを失わない、武士らしい武士として描かれている。




  
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