日本語と日本文化


古事記における出雲神話:三浦佑之「古事記を読みなおす」


オホナムチと因幡の白ウサギの話に始まり、オホナムチによる芦原の中ツ国の統一、ヤチホコの求婚譚、オホクニヌシとスクナヒコナによる国造りに至る壮大な出雲神話は、古事記においては大きなウェイトを占めるわけだが、これらはなぜか日本書紀の正文にはない。スクナヒコナについてのみは一書と言う形で言及はあるが、いかにもおざなりである。こんなところから、出雲神話の扱い方の中に、古事記と日本書紀の相違を知る最大の手掛かりが隠されていると、三浦佑之氏はいう(古事記を読みなおす)。

氏は、日本書紀が律令制の正当性を語るという立場から、古代の様々な神話的な言い伝えから、天皇家にストレートにつながる部分だけを取り出して、それを垂直的に再構成したものだと捉えている。つまり日本書紀を極めて政治的な性格の強い書物だと捉えているわけである。だからその政治的な目的に沿わないようなものは、尽く切り捨てられた。古事記の大きな部分をなす出雲神話は、そうして切り捨てられた部分だろうと考えるのである。

ではなぜ、日本書紀では切り捨てられたものが、古事記には残ったのか。古事記もまた日本書紀と同じく天武天皇の詔をきっかけにして編集された勅撰の歴史書であるというとらえ方に立てば、両者の間にあるこの相違、しかも非常に大きな相違を、説得性を持って説明することはできない。

そこで氏は、古事記は日本書紀と違って、原資料となった物語を、かなりよく保存しているのではないかと推測する。その原資料なるものが、古事記と日本書紀とで根本的に異なっていたと考える必要はないが、それの最終的な取り上げ方が違っていたと考えるのだ。日本書紀は、天皇家の正当性に直接かかわる部分だけを取り上げ、出雲神話のような、直接天皇家とかかわりのない部分は切り捨てたのに対して、古事記ではそうした部分も残した。

ということは、古事記と日本書紀は、これまで考えられてきたように、双子の兄弟のようなものではなく、かなり違ったものであると考える必要があるということだ。氏は、そういうスタンスに立って、日本書紀が律令制の正当性を主張するために作られた公定の歴史書であったのに対して、古事記の場合には、もとになった物語の大部分をそのままの形で残しているのだと考えるのである。

氏は、そのもとになった物語が、口によって語られたものだったのではないかと推測する。そしてその語りの主体として、乞食人のような集団の存在をあげている。万葉集にも出てくるこの乞食人の集団が、身振り手振りを交えながら、面白おかしく語った物語のひとつに、出雲神話もあったのではないか、というわけである。

たしかに、天皇制の由緒を説明するという目的にとっては、出雲神話は必ずしもなくてはならないものではない。というより、物語の一貫性を乱すような夾雑物と考えることもできる。そのような夾雑物を敢えて残そうというからには、そこにはある一定の意思が働いていたに違いない。その意思とは、日本に伝わる古の歴史をありのままに伝えたいとする意思であったに違いない。

その歴史とは、大和王権が成立する前に、出雲に強力な王権が存在していたということだろう。大和王権は出雲王権を屈服させることで成立した。古事記や日本書紀が語る、高天原と芦原中つ国の対立は、大和王権と出雲王権の対立を象徴しているのであり、天孫降臨と国譲り神話は、大和王権による出雲王権の制服・支配を表している、そうとらえることもできる。

こうした見方に立てば、古事記の神話が、その中核部に出雲神話ののんびりした物語群を抱え、さらにその前後に、オホナムジの祖先神としてのスサノオの話や、タケミナカタの話を配置させている事の意味が浮かび上がってくる。日本書紀では無視しているこうした物語を通じて、古には大和王権と相並ぶような強力な王権が存在していたとの歴史の記憶を、古事記は保存している、そうした見方ができるわけである。

氏は、出雲王権が日本海文化を背景に成立していたのではないかと推測する。大和王権が大和を中心にしていたのに対して、出雲王権は出雲を中心にして、日本海を通じて山陰や北陸の諸国と深いつながりを持っていたのではないかと考えるのである。

そのつながりを示唆する話が、古事記には少なくとも二つあると氏はいう。ひとつはスサノヲのヲロチ退治であり、もうひとつはタケミナカタの諏訪への逃亡である。

ヤマタノヲロチ神話は、クシナダヒメとの結婚とセットになって、農耕の起源を語る神話だと考えることができるが、このヤマタノヲロチを古事記ではコシノヤマタノヲロチと言っている。日本書紀がたんにヤマタノヲロチと記しているのに対して、何故コシという言葉を付け加えたのか。

氏は、このコシとは越即ち北陸地方を表した言葉だという。ヲロチにわざわざその出身地の名を冠するのは、地名に特別な意味があるからに他ならない。その特別な意味とは、出雲の人々にとって北陸地方がもっていた特別な意味なのだろう、と氏は考える。出雲の人にとっては、北陸が関わりの深い地だと意識されたからこそ、ヤマタノヲロチにその名を冠したのではないか、と考えるわけである。

タケミナカタは古事記の国譲り神話の中で、タケミカヅチと力比べをして敗れ、諏訪湖に追放されたことになっている。タケミナカタと言う名前は、「タケ(立派な)ミナカタ(水潟)」のことで、もともと諏訪湖の神であったことを伺わせる。その神がわざわざ出雲にやって来て、高天原の使者たるタケミカヅチと張り合う。これは、日本海を通じて、出雲と信州が結びついていたことを物語っているのではないか、そう氏は考えるわけである。

それ故、タケミナカタは諏訪へと逃れるのに、日本海のルートを伝って逃げたに違いない。伝承の中には、タケミナカタはコシノヌノカハヒメの産んだ子だとしているものもある。そうだとすればタケミナカタは母の故郷である北陸を伝って、自分の家である諏訪神社に帰っていったということになる。

こうした神話が物語っているのは、太古の日本には、ヤマトを中心とした瀬戸内や太平洋側の文化圏とは異なった文化圏が、日本海側に成立していたということだ、と氏は言う。実際、そうした推測を裏付けるような特徴を、この地に認めることができるともいう。

たとえば、四方の隅が飛び出した四角い墳墓「四隅突出型方墳」の存在、取っ手の部分に特徴のある素環頭鉄刀と呼ばれる刀剣、そして巨木を立てるという文化である。

巨木は、能登半島の真脇遺跡、金沢市のチカモリ遺跡、糸魚川市の寺地遺跡などに見られるが、それの典型が出雲大社の巨大神殿だったと考えられる。現在の出雲大社の神殿には24メートルの高さの柱が使われているが、それがかつては倍の48メートルあったことが確認されている。

また諏訪大社には、神社の4隅に御柱と呼ばれる巨大な柱が立てられており、それが7年ごとに立て直されていることは、諏訪の祭りとして今に伝わっているが、これも出雲を中心にした日本海側の巨木文化の一環だと考えられる。

こうしたわけで、古事記は日本書紀が無視して切り捨てた出雲神話を多く保存している。それは、古事記を伝えた人々に、日本書紀を作った人々とは異なった動機が働いていたことを、語っているのではないか、そう氏は言うのである。




  
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