日本語と日本文化


オオクニヌシ(大国主神―死と再生)


日本神話におけるオオクニヌシの存在感は、スサノオと並んで大きなものがある。概していえば、日本神話は、天上の世界たる高天原と地上の世界たる葦原の中つ国との間の、対立と連続の相のもとで展開していくのだが、高天原がそれ自体として描かれることは少なく、殆どは葦原中国を舞台にしている。ゼウスやヘラ、ヘパイストスなどがオリンポスにおいて様々な行為を繰り広げるギリシャ神話などとは、大いに異なるところである。オオクニヌシは、この葦原中国を豊かな土地に作り変えた主人公として、日本神話のなかでは特別な存在なのである。

古事記は、オオクニヌシをスサノオの子として紹介している。「此の神、刺国大神の女、名は刺国若比売(さしくにわかひめ)に娶ひて生みませる子、大国主神。亦の名は大穴牟遅(おほなむぢの)神と謂ひ、亦の名は葦原色許男(あしはらしこを)神と謂ひ、亦の名は八千矛(やちほこ)神と謂ひ、亦の名は宇都志国玉(うつしくにたま)神と謂ひ、并せて五つの名有り。」日本書紀では、このほか大物主という名も付け加えている。

多くの名を持つことには象徴的な意味合いがある。大穴牟遅神とは「大いなる土地の神」という意味であり、国土を経営するものとしてのオオクニヌシを指す。八千矛神とは武に長けた戦士としての側面を指している。また、葦原色許男とは、スサノオによって呼ばれた名であることから連想されるように、異界から見たときのこの世の者を代表する言葉なのであろう。そして、大国主神とは、これらの名を集成した形で、天孫に国譲りをする当事者としてのオオクニヌシを指しているのである。

オオクニヌシの生涯は、兄たち八十神によって課された試練をくぐることから始まる。この試練の中で、オオクニヌシは二度死に、そして生き返るのである。一度目は、兄たちが猪と偽って投げ下ろした火の石に焼かれ、二度目は、木のうろに仕掛けた矢に射殺された。いづれの場合にも、オオクニヌシを蘇生させるのは母神の嘆きである。母神は姉妹の女神を遣わして、ばらばらに焼け焦げた死体を集めさせ、それに乳汁をぬることで死者を蘇らせたのであった。

死と再生とは人類にとって普遍的なテーマであり、世界中の神話によって取り上げられている。蘇りたいという、人間の根源的な感情が、来世での再生と結びつくとき、そこに宗教というものが生まれる。しかしオオクニヌシのように、二度も死と再生を繰り返す例は、そう多くはないのではないか。

オオクニヌシは、二度目の再生の後、スサノオのいる根の国を訪問することとなる。根の国とは地下の国、さばえなすおどろおどろしきところであり、死者の赴くところでもあっただろうから、ここでもオオクニヌシは冥界の体験をすることとなるのである。

根の国での様子を、古事記は次のように描いている。

―故(かれ)、詔(の)りたまひし命(みこと)の隨(まにま)に須佐之男命の御所に参到れば、其の女(むすめ)須勢理毘売(すぜりひめ)出で見て、目合(まぐはひ)為て相婚(あ)ひたまひて、還り入りて、其の父に白して言はく、「甚(いと)麗しき神来ましつ」とまをしき。爾に其の大神出で見て告りたまはく、「此は葦原色許男と謂ふぞ」とのりたまひて、即ち喚び入れて、其の蛇の室に寝しめたまひき。

オオクニヌシはスサノオにとっては自分の息子である。その息子が根の国にやってきたのをみて、スサノオはまず、蛇ののたうつ部屋に導きいれる。スサノオがオオクニヌシに与えた試練の意味を読み取ったスゼリヒメは、オオクニヌシにそれをしのぐ術を教える。

―是に其の妻須勢理毘売命、蛇のひれを其の夫に授けて云はく、「其の蛇咋(く)はむには、此のひれを三たび挙(ふ)りて打ち撥ひたまへ」といひき。故、教の如せしかば、蛇自ら静まりき。故、平(やす)く寝て出でたまひき。亦来る日の夜は、呉公(むかで)と蜂との室に入れたまひしを、亦、呉公・蜂のひれを授けて、先の如く教へき。故、平く出でたまひき。亦鳴鏑(なりかぶら)を大野の中に射入れて、其の矢を採らしめたまひき。故、其の野に入りましし時、即ち火を以ちて其の野を焼き廻らしき。

オオクニヌシは、スゼリヒメの導きによって、スサノオによって課せられた試練を次々と乗り越えていく。それでも、ピンチにたつと、次はねずみが現れて、オオクニヌシを助ける。

―是に出でむ所を知らざる間に、鼠来て云はく、「内はほらほら、外はすぶすぶ」といひき。如此言ふ故に其処を蹈みしかば、落ち隠り入りましし間に、火は焼け過ぎき。爾に其の鼠、其の鳴鏑を咋ひ持ちて、出で来て奉りき。其の矢の羽は、其の鼠の子等皆喫ひたりき。

スサノオの試練は、次々と続くのであるが、オオクニヌシは、ことごとく乗り越えていく、そのやり取りは、父と子の正面きった対決ともいえ、また、一人の若者が困難を克服してひとり立ちする過程を描いたものとも受け取れ、一種成人への通過儀礼を象徴するもののようにも映る。

―是に其の妻須勢理毘売は喪(はふりつ)具を持ちて哭き来、其の父の大神は、已に死にぬと思ほして、其の野に出で立ちたまひき。爾に其の矢を持ちて奉りし時、家に率て入りて、八田間の大室に喚び入れて、其の頭の虱を取らしめたまひき。故、爾に其の頭を見れば、呉公多(さは)に在り。

―是に其の妻、牟久(むく)の木の実と赤土(はに)とを取りて、其の夫に授けき。故、其の木の実を咋ひ破り、赤土を含みて唾き出したまへば、其の大神、呉公を咋ひ破りて唾き出すと以為ほして、心に愛しく思ほして寝たまひき。爾に其の神の髪を握りて、其の室の椽(たりき)毎に結ひ著けて、五百引の石を其の室の戸に取り塞(さ)へて、其の妻須勢理毘売を負ひて、即ち其の大神の生大刀と生弓矢と、及其の天の詔琴を取り持ちて逃げ出でます時、其の天の詔琴樹に払れて、地(つち)動(とよ)み鳴りき。

―故、其の寝ませる大神聞き驚きて、其の室を引き仆(たふ)したまひき。然れども椽に結ひし髪を解かす間に、遠く逃げたまひき。故、爾に黄泉比良坂に追ひ至りて遥に望(みさ)け呼びて、大穴牟遅神に謂りて曰ひたまはく、「其の汝が持てる生大刀・生弓矢を以ちて、汝が庶兄弟をば坂の御尾に追ひ伏せ、亦河の瀬に追ひ撥ひて、おれ大国主神を為り、亦宇都志国玉神と為りて、其の我が女須勢理毘売を適妻と為て、宇迦の山の山本に、底つ石根に宮柱ふとしり、高天原に氷椽たかしりて居れ。是の奴よ」とのりたまひき。故、其の大刀・弓を持ちて、其の八十神を追ひ避りし時、坂の御尾毎に追ひ伏せ、河の瀬毎に追ひ撥ひて、始めて国を作りたまひき。

オオクニヌシは、スゼリヒメの力を借りつつ、自力でこの世に戻ることができた。根の国とこの世との接点が黄泉比良坂であることに、この物語の象徴的な意味を乱すことができる。この境界にたって、父スサノオはオオクニヌシに向かって、「是の奴よ」と呼びかけている。息子は父のことばに答えて、国を作る営みに邁進していくのである。

この逸話はある面で、イザナギの冥界訪問と通じるものがある。しかし、決定的に異なるのは、これが単純な冥界訪問にとどまらず、死と再生の隠喩を含んでいるという点である。古事記では明示的にはいっていないが、根の国にいくということは、死を暗示させる。イザナギは死んだイザナミを追って、自分は生きた形のまま、死者の国に赴いたのであるが、オオクニヌシの場合には、自分が死者とならなければ冥界に踏み入ることはできなかったはずなのである。

オオクニヌシは、三度死と再生の儀式を潜り抜けて、初めて国を作る勇者へと変身したのである。

なぜ三度も死ななければならなかったか、これは日本の神話のひとつの謎として残しておきたい。


    


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