日本語と日本文化


永井荷風の谷崎潤一郎論


永井荷風は谷崎潤一郎を高く評価した最初の人だった。谷崎は荷風の高い評価によって、文壇にゆるぎない地位を築くことができたといってもよいほどである。そのことを谷崎は深く感謝して、生涯を通じて荷風を畏敬し続けた。戦争末期に荷風が空襲から焼き出されて関西方面を放浪していた時、谷崎が岡山県の疎開先で荷風の面倒をみたのも、そうした感謝の現れだった。谷崎はある面で非常に義理堅いのである。

荷風の谷崎論「谷崎潤一郎氏の作品」は、「幇間」以前の谷崎の初期作品を論じたものである。それらの作品を取り上げながら、荷風は谷崎が前代未聞のユニークな作家であることを強調する。

「明治現代の文壇において今日まで誰一人手を下す事のできなかった、或は手を下そうともしなかった芸術の一方面を開拓した成功者は谷崎潤一郎氏である。語を替へて言へば、谷崎潤一郎氏は現代の群作家が誰一人持ってゐない特殊の素質と技能とを完全に具備してゐる作家なのである」

冒頭からこう述べているように、荷風の谷崎に対する評価は非常に高い。荷風によれば谷崎は、題材の目新しさで群を抜いているばかりか、表現の能力においても、他の追随を許さない、稀有の才能の持ち主なのだ。

ではどんな要素が谷崎の作品を特徴づけているのか。荷風はその特質として三つあげている。

「第一は肉体的恐怖から生ずる神秘幽玄である」と荷風はいう。谷崎は普通の観察者とは違って、人間を肉体としてとらえたうえで、肉体の残忍さがもたらす恐怖を描くことに成功した作家だということになる。人間を、心と体からなると考えるのが普通の観察者だが、谷崎は人間をもっぱら肉体に還元してしまう。そこが誰にも真似できない斬新さなのだ、と荷風はまずとらえるわけである。

そうした傾向はボードレールやポーにも通じるところがある、と荷風はいう。そして「肉体上の恐怖と此の屈辱に対する病的の狂愛とを併せて、谷崎氏の作品をば糜爛の極致に達したデカダンスの芸術の好適例と見做すのである」といって、谷崎の文学がデカダンスという面で、世界文学の普遍的な傾向にもつながっていると看破している。

第二は、「まったく都会的たる事」だという。その都会的たることの内実については、荷風はほとんど語るところがないのだが、それは、荷風は東京に生まれ育った都会人として、同じく都会人たる谷崎に親近感を抱いていたからで、いちいち文章で説明しなくても、都会人であればわかることだと、いっているのかもしれない。

ただひとつ、谷崎の文学を泉鏡花の亜流とする見方に対して荷風は、鏡花は江戸的ではあるが都会的ではないといって、それに反論している。鏡花の江戸情緒はロマンチックな脚色の上に成り立っているのに対して、谷崎の場合は、まさに都会的たることを自然に振る舞っているに過ぎない。その自然な振る舞いのうちから、都会的な洗練された雰囲気が自然と醸し出されてくるのだ、と言いたいわけであろう。

第三に、文章の完全なる事だという。そしてこれが谷崎の最大の天賦であると荷風は見ていたに違いない。荷風の目から見れば、同時代人の文学なるものは「未だよく辞句と文章と語格との整頓しえない」稚拙な文章が目立つ中で、谷崎の文章は、「河岸の物揚場を歩いた後、広い公園の中へでも入ったような心持がする」ほど、すっきりとしていると見えたのだろう。

谷崎の文章は、誇張を用いながらしかも誇張に溺れず、文意は明晰でかつ冷静である、と荷風は言いたいようだ。「自分は谷崎氏ほど其の云はんとする処を云ふに当って、先づ冷静沈着に其の云ふべき処の何物たるかを反省し、然る後最も適切なる辞句を選び出して、泰然自若として此れを筆にする人は他にあるまいと思ふ位である」

これはつまり、谷崎の文章が非常に論理的であることを指摘しているわけである。論理的に説明しながら、しかも非論理的で直感的な印象を生ぜしむるのが、谷崎の文学なのだ、と荷風はいいたいのだろう。

論理的で冷静な文章を以て、「肉体的恐怖から生ずる神秘幽玄」を描く、それが谷崎文学の最大の特質なのだ。これが最初の谷崎潤一郎論で、荷風がたどり着いた結論だったわけだ。

谷崎自身も、こうした荷風の指摘を、好意的に受け入れたようだ。彼はその後生涯を通じて、文章をいうものにこだわり続けたのであったが、それは荷風の指摘した自分の美質を、さらに深く追及し、日本語のあらゆる可能性を文学という場で試したいとする、谷崎一流の野心を物語っているとも受け取れるのである。


    

  
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