日本語と日本文化


痴人の愛


谷崎潤一郎の小説「痴人の愛」を、筆者が初めて読んだのは高校生の時だったこと、その時には何とも嫌な気分になって、それがきっかけで、谷崎作品に先入見のようなものを感じるようになった次第については、先稿で書いたとおりである。この小説の何が、思春期の筆者をして拒絶反応を引き起こさせたのか。老人となった今、この小説を読み返して、改めて考えてみた。

この小説には、二つの特徴がある。ひとつは人間の性について焦点をあてていること、もう一つはマゾヒズムの匂いを忍ばせている事である。そしてここでのマゾヒズムには、性的倒錯というべきものが纏いついている。というか、性的な倒錯がマゾヒズムの形をとっている。この小説では、性的倒錯とマゾヒズムとは同義語なのである。

こんなわけだから、未だ少年の状態から完全に脱し知れていない人間にとっては、理解することが困難だったということは言えるだろう。

ただ単に、人間の性をテーマにしているだけだったら、少なくとも拒絶反応は起こらなかっただろう。「刺青」などは、やはり人間の性的な感情を描いたものなのに、筆者はそこでは嫌な気分はおこらなかった。だから、性的なテーマが筆者の理解を超えたということではなかった。また、性的倒錯についても、それ自体としては理解出来ないことではなかった。「秘密」などは、そうした倒錯した世界を描いたものであるのだし、筆者はそれを十分に受け入れることができたのである。

では何故、「痴人の愛」があれほどに激しい拒絶反応を起こさせたのだろうか。マゾヒズムと言い、性的倒錯と言い、それ自体では理解可能な事柄であっても、両者が結合して一つのモノになると、そこに理解を超えた超越的な世界が現出するからであろうか。その超越的な世界が、読むものに向かって、名状しがたい誘惑のようなものを感じさせ、それが読者をして尻込みさせるのでもあろうか。

高校生の頃に感じた拒絶反応を今から分析してみると、どうやらそこには、この小説の持つ攻撃性といってよいようなものが作用していたのではないか、そんな風に思われる部分がある。

攻撃性と言ったが、それは一口で言うと、読者をそそのかして、自分が意図しない方へと駆り立てられていくような、非自発的な感情を生じさせる力のことである。この攻撃性のおかげで、読者は心を鷲つかみにされたあげくに、自分もまた小説の世界の主人公と同じような行動に向けて駆り立てられるのを感じる。それは自分の意図しないことであるがゆえに、不愉快なことがらである。その不愉快さが、あの拒絶反応につながったのではないか。

この小説には、読者をして小説の主人公に感情移入させながら、しかも同時に反発を感じさせるような、矛盾した要素がある。その矛盾した要素は、大方の大人たちにとっては破壊的な作用を及ぼすことはないが、まだ少年期を脱していない人間にとっては破壊的に作用するのだろう。実際老人としての筆者には、この小説は不愉快であるどころか、愉快極まりなかったのである。

こんなわけで、この小説は分別を備えた大人が読むべきものである。少なくとも少年は読むべきではない。それが筆者の感想である。この感想は重い経験に裏付けられているから、世の教育者は耳を傾ける価値がある。

ところでこの小説の何が、筆者のような老人を含めた大人の読者にとっては愉快なのか。

それは、小説の中の主人公格のカップルが、読者たちが現実の世界では味わいえない冒険的な感情を、疑似的に味あわせてくれるからだと思う。性的倒錯と言い、マゾヒズムと言い、それ自体としては興味深い事柄だ。しかしそうした事柄を現実の世界で演じられるものは多くはいない。いるとしたらその人間は、すでにこの世界の秩序からはみ出してしまっているのであり、したがって世の中において善良な人間として自己主張することができない立場に自分を追い込んでいることになる。

この小説は、自分をまずい立場に追いこまないままで、性的な倒錯やマゾヒズムとサディズムの戯れ合いと言った、いわばゲームをしているかのような感情を味あわせてくれるのだ。

この小説が完全な作り物であり、したがって現実とはかかわりのない物語の世界を描いていることは、この小説の結構そのものが現実離れしていることから明らかである。30歳を過ぎた主人公の男が、15歳の少女を、あたかも犬や猫を買かのようにして、自分の支配下に置く。男は力関係の非対称性を十分に利用して、この少女をペットのように扱う。少女はこの男のペットとしてこの小説に登場するのである。こんなことがいかにありえないことで、しかも思うだけで非道徳的なことであるかは、論じるまでもない事柄だ。

これだけでも、非道徳的でかつありえない事柄だったはずの、男と少女の関係が、次第に反転していく。ペットであった少女は、自分のペットとしての魅力を逆手にとって主人である男を反対に自分の意に服させるようになる。ついにはペットと主人の立場が逆転する。今やペットであった少女が主人公の主人となる。主人であったはずの主人公は、いまや少女の意思に逆らえない弱弱しい存在に化する。しかし弱々しいといっても、それが苦痛なわけではない。なぜなら主人公は少女によって虐待されることに喜びを感じるからだ。少女は少女でそんな主人の性癖を逆手に取り、自分の意思を最大限に貫こうとする。

そこにゲームの感覚が物を言う世界が成立する。マゾヒズムはサディズムの裏返しと言われるように、いじめられることに喜びを感じる者は、いじめることに喜びを感じる者の存在を前提にする。それ故、この小説の主人公たちは、二人そろって初めてゲームが成立するような関係にある。どちらが欠けてもゲームは成立しない。

こんな次第でこの小説は、物語性だけでなく、ゲームとしての資格をも兼ね備えている、非常に見事な作り物だといえよう。


    

  
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