日本語と日本文化

子規と漱石


漱石は子規の死後数年たった明治四十一年に、雑誌ホトトギスの求めに応じて子規の思い出を口述筆記させた。その中に次のようなくだりがある。

「なんでも僕が松山に居た時分、子規は支那から帰って来て僕のところに遣って来た。自分のうちへ行くのかと思ったら、自分のうちへも行かず親類のうちへも行かず、此処に居るのだといふ。僕が承知もしないうちに、当人一人で極めて居る。」(漱石談話 正岡子規)

この話は、お山の大将でないと気がすまない子規の性格を面白おかしく述べたもので、大分誇張が混じっている。話の中では子規のほうから勝手にやってきて、漱石の承諾もないままに居座ったようになっているが、事実としては、子規の病を知った漱石が、自分のところで静養するようにとの配慮から、わざわざ招いたのである。

当時子規の故郷松山の中学教師に赴任していた漱石は、年来の親友子規と一緒に暮らせることを喜んだにちがいないのだ。漱石は子規が大喀血した明治22年のこともよく覚えており、それが支那に居る間に悪化して、一時は生死の境をさまよったと聞いて、老婆心から静養を勧めたのだと思われる。しかも松山は子規の故郷だ。ここで自分と一緒に暮らしながら静養すれば、病気も少しはよくなるかもしれない、こう考えただろうと思えるのだ。

子規が漱石の下宿愚陀仏庵に滞在したのは50日ばかりに過ぎなかったが、この間松山の俳句愛好家松風会の人々に囲まれ、大いに俳諧を作り論じた。漱石もその輪に加わり、俳句をひねるようになった。その様子を、先の談話は続けて次のように述べている。

「僕は二階に居る、大将は下に居る。其のうち松山中の俳句を遣る門下生が集まって来る。僕が学校から帰って見ると、毎日のやうに多勢来て居る。僕は本を読むこともどうすることも出来ん。尤も当時はあまり本を読む方でもなかったが、兎に角自分の時間といふものが無いのだから止むをえず俳句を作った。」

これもまた漱石一流の諧謔が現れている部分といえるだろう。

子規と漱石が知り合ったのは、一高時代の明治21年頃だとされる。その時二人を結びつけたのは俳句ではなく落語であったらしい。漱石の落語好きは有名だが、子規も若い頃には落語を喜んで聞いたのだろう。

そして運命の明治22年、子規は大喀血をした。そのときの二人のやり取りは、先稿で述べたとおりである。

一校卒業後、二人はともに帝国大学に進み、漱石は英文学、子規は哲学ついで国文学の道を歩んだ。しかし子規は途中で学業を放擲し、大学を中退する。その時漱石は子規の為に随分と心配してやったが、子規のほうはさばさばしたもので、陸羯南の発行する新聞「日本」の記者になって、そこを舞台に精力的に俳句を発表するようになる。

その年(明治25年)の夏、漱石と子規は連れ立って関西旅行をしている。子規が郷里の松山に帰るのに便乗して、漱石も亡くなった次兄の妻小勝の実家を訪ねて岡山に行くことにしたのだった。このときには、二人で京都や大阪に遊び、互いに友情を深めたと思われる。

さて松山での共同生活の後、東京へ帰った子規は脊椎カリエスのために床に伏しがちになり、漱石のほうは松山中学から熊本の高校へ転じたりして、二人が顔を合わせることは難しくなった。その代わり往復書簡を通じて、互いに励ましあうようにある。その内容は、漱石が作った俳句を子規に送り、それに子規が添削を加えるというものが多かった。

二人が最後に会うのは明治33年、漱石がイギリス留学に出発するに際して、子規に別れをいいに行った時だった。その時子規は餞別として次の句を漱石に贈った。

  萩すすき来年あはむさりながら

子規も漱石も、これが最後の別れとなることを、覚悟していたに違いない、それが句から伝わってくる。

漱石のロンドン滞在中、子規は漱石にあてて2度しか手紙を出していない。死が差し迫っていた子規には、余裕がなかったのだろう。一方漱石のほうも、ロンドンでの暮らしが性にあわず、重いメランコリーにかかったりしていた。

その中で、子規が漱石にあてた生涯最後の手紙は、読むものの胸を打つものがある。

「僕はもーだめになってしまった、毎日訳もなく号泣して居るやうな次第だ。・・・僕が昔から西洋を見たがって居たのは君も知ってるだろー。それが病人になってしまったのだから残念でたまらないのだが、君の手紙を見て西洋へ往たやうな気になって愉快でたまらぬ。若し書けるなら僕の目の開いているうちに今一度一便よこしてくれぬか(無理な注文だが)・・・僕はとても君に再会することは出来ぬと思ふ。万一出来たとしても其時は話も出来なくなってるだろー。実は僕は生きているのが苦しいのだ。・・・書きたいことは多いが苦しいから許してくれ玉へ。」

この手紙に接した漱石は、子規にあてて返事の手紙を書かなければならないと思いながら、自分自身の不調も理由して、ついにその機会をえないまま、子規が死んだという知らせを聞いた。

このことは漱石の心に、深い後悔の念として残ったであろう。だが漱石は、生きている子規に対しては返事を書いてやることができなかったが、別な形で、子規に別れの言葉を贈ることにした。子規没後の明治39年「我輩は猫である」中篇を出版するに際して序文を付し、その中で子規に対して哀悼の気持ちを述べたのである。

「余は此手紙を見る度に何だか故人に対して済まぬことをしたやうな気がする。・・・哀れなる子規は余が通信を待ち暮らしつつ、待ち暮らした甲斐もなく呼吸を引き取ったのである。・・・書きたいことは多いが、苦しいから許してくれ玉へなどと云はれると気の毒でたまらない。余は子規に対して此気の毒を晴らさないうちに、とうとう彼を殺してしまった。」


    


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