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正岡子規と森鴎外:日清戦争への従軍


近代国家日本の最初の対外戦争である日清戦争が始まると、元来が武家意識の塊であり、しかも新聞記者でもある正岡子規は、自分も従軍したくてたまらなかった。しかし結核をわずらい、体力には自身がなかったため、周囲の反対もあってなかなか実現しなかった。

だが記者仲間の五百木瓢亭が従軍して、戦場からのレポートを「日本」に発表したりするのを目にするにつけ、従軍志望はいよいよ高まった。そしてついにその願いがかなう日が来る。明治28年4月28日、子規は第二軍近衛師団にしたがって、戦場へと赴くことになる。その際景気付けに詠んだのが次の句である。

 行かば我れ筆の花散る所まで

子規は意気揚々として遼東半島の金城に上陸したが、その時戦争は既に終わっていた。子規が上陸した2日後には、日清講和条約が締結される。

だから子規が現地で見たものは、戦争の光景ではなく、戦後の荒れ果てた眺めであった。それでも子規は、従軍の様子を記録に収め、「陣中日記」と題して「日本」に送った。俳句入りの雑報といった体裁のものだが、もとより生々しい戦争の記録といったものではなく、文学味豊かな紀行文ともいうべきものだった。その折に添付された句のうちのいくつかを次に示そう。

 一村は杏と柳ばかりかな
 古寺や戦のあとの朧月
 戦のあとにすくなき燕かな

この従軍は子規の健康に災いして、日本へ帰る船の中で大喀血を引き起こすにいたり、やがて彼を寝たきりの状態まで追い詰めることとなる。

だが一方で収穫がないわけでもなかった。そのひとつが森鴎外との親交を深めたことである。鴎外は子規と時期を同じくして、近衛師団軍医部長として金城に駐留していたのだった。

子規は鴎外とは始めて会うわけではなかった。「日本」の記者として、既に文名の高かった鴎外とは仕事を通じて接する機会があった。だが異国のしかも戦場で再会した二人は、それこそ胸襟を開いて語り合ったことだろう。鴎外の日記には子規と俳諧のことを談じたという記録が残っているし、また戦場で子規と懇意になったことは非常に幸せだったと、後年柳田国男との談話の中で語っている。

子規と鴎外との交友は日本へ帰ったあとでも続いた。翌明治29年の正月には、子規庵での発句初めに鴎外も招かれて参加し、それ以後何度か運座に加わっている。漱石や虚子も加わったある運座の席では、鴎外が最高点をとった。そのときの主なメンバーの句は、次のとおりである。

 おもひきって出で立つ門の霰かな 鴎外
 雨に雪霰となって空念仏      漱石
 面白う霰ふるなり鉢叩       虚子

子規のほうでも、鴎外が創刊した雑誌「めさまし草」に、一門を挙げて俳句や評論を寄稿して、花を添えてやった。

こうした二人の交友は鴎外が小倉に転勤する明治32年まで続いた。その間柄は、親しき中にも礼儀ありといったものだったようだ。漱石や虚子に対しては、お山の大将振りを発揮した子規も、5歳年長の鴎外に対しては、礼儀をもって接していたのだろう。



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