日本語と日本文化

子規と俳句


正岡子規は生涯に数万の俳句を詠んだ。彼はその中から保存するに耐えると思うものを選び出し、分類した上で手帳に清書して書き溜めた。その数は2万句近くに上る。手帳の1冊目から5冊目までは「寒山落木」と題し、6冊目と7冊目には「俳句稿」と題した。今日子規全集に納められているのは、これらの句が中心になっている。岩波文庫から出ている高浜虚子編「子規句集」もそれから抜粋したものである。

寒山落木の第一句が明治18年のものであるように、子規が俳句を作り始めたのはこの年であると断定してよい。子規はまだ18歳の若者であった。

子規はなぜ俳句に興味を持つようになったか。背景のひとつとしては、彼の郷里松山の事情が働いたものと思われる。松山藩は俳句の盛んな土地柄で、徳川時代を通じて多くの俳人を出した。歴代の殿様にも俳句を好むものが多かったという。子規はだから、少年時代からそうした俳句作りの空気に囲まれ、それが彼に俳句への関心を掻き立てる遠因になったことは考えられる。

徳川時代末期から明治の初年にかけては、俳句や和歌といった短詩形の文芸はいまひとつふるわなくなっていた。徳川時代末期には、武士を中心にした知識人の間ではた漢学が全盛を迎え、庶民の間では小説の類が人気を集めていた。維新を契機に近代化の波がやってくると、今度は西洋の文学が入ってきて、人々は西洋流の小説や新体詩に飛びつくようになる。こうした時代の流れから見ると、俳句や和歌などの短詩形の文芸は、川柳や狂歌も含めて時代遅れに見られていた。

子規もそうした様子について、次のように書いている。

「和歌も俳句も正にその死期に近づきつつある者なり・・・換言すれば、俳句は既に尽きたりと思ふなり。よし未だ尽きずとするも明治年間に尽きんこと期して待つべきなり・・・(和歌も)用ふるところの言語は雅言のみにしてその数甚だ少なき故にその区域も俳句に比して更に狭隘なり。故に和歌は明治以前においてほぼ尽きたらんかと思惟するなり。」(俳句の前途)

子規にこのような認識があったということは、彼が俳句や和歌の再興に危機感をもって臨んだことを意味する。子規は俳句や和歌を、旧来の手法の延長では救い得ないと考えた。それには時代の流れに乗るような、新しい要素を盛り込まねばならない。

子規がたどり着いた結論は、技巧を排して、自然をあるがままに表現することであった。つまり写実である。この写実は俳句と和歌を通じて、子規の創作態度の原点となっている。子規はこれを「月並み」という言葉でも表現した。

子規はこの月並みの立場から芭蕉の句を解釈しなおした。たとえば有名な「古池や蛙飛び込む水の音」について、次のように評している。

「初学の人俳句を解するに作者の理想を探らんとする者多し。しかれども俳句は理想的のもの究めて稀に、事物をありのまま詠みたるもの最も多し。しかして趣味はかへって後者に多く存す。たとへば
  古池や蛙飛びこむ水の音
といふ句を見て、作者の理想は閑寂を現すにあらんか、禅学上悟道の句ならんか、あるいはその他何処にかあらんかなどと詮索する人あれども、それはただそのままの理想も何もなき句と見るべし。古池に蛙が飛び込んでキャプンと音のしたのを聞いて芭蕉がしかく詠みしものなるべし。」(俳諧大要)

子規はこのように、ありのままの事物をありのままに表現することが、平易で誰にでもわかる句であり、またそれが句に命を吹き込むこととなるのだという立場を貫いた。それは子規の弟子たちにも伝えられて、近代俳句の大きな流れとなっていく。

こうした立場から、子規が伝統的な俳句に加えた修正が二つある。そのひとつは季語に必ずしもとらわれぬことである。子規はいう。

「俳句の題は普通に四季の景物を用ふ。しかれども題は季の景物に限るべからず。季以外の雑題を取り結んでものすべし。両者並び試みざれば終に狭隘を免れざらん。」(俳諧大要)

季語は俳句にとっては、俳句が俳句として成り立つか否かの分かれ目をなすほど重要な約束事だった。それを取り払おうというのであるから、俳句にとっては大きな挑戦であったわけだ。この挑戦は余りにも大胆すぎたのか、子規以後退けられ、俳句は今も季語を中心にして歌われ続けている。

二つ目は伝統的な俳句作りの原動力となってきた連句を軽視することだった。連句は複数の人が、題をやり取りして句をつないでいくものである。だが子規はそこに技巧がはびこりやすいのを見て、これを退けたのだと思われる。子規の催した句会には、連句の形式が採用されたことはない。

連句は俳句の原点となったものだ。俳句はそもそも徘徊の発句として始まったのであり、芭蕉一門の句会には、この徘徊の連句の伝統がまだ息づいていた。

このように俳句は、出生の事情からして俳諧を趣味としていた。そこに遊びの精神が働いていたのは、俳句という名称そのものにも反映している。それを否定した子規は、俳句から遊びの精神を追放してしまったといわれても仕方がないところがある。

子規の創作態度は、ありのままの自然をありのままに歌うというものであった。それは技巧や約束事を排し、自然と向き合った個人の素朴な感情を重んじる。それは一方では俳句や和歌から遊びの精神を排除する姿勢を強めたが、他方では短詩型文芸にみずみずしい感覚を持ち込んだ。そのことが俳句や和歌に新しい息吹をもたらすことにつながったのだといえる。


    


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