日本語と日本文化


行進曲:草野心平の詩集「第百階級」より


「第百階級」は草野心平の処女詩集として、みずみずしい感性に溢れているとともに、表現に幼稚なところがあったり、広がりや深さを感じさせないものもある。だが総体としてみれば、躍動する生命感のようなものが詩集を貫いて息づいているといえる。

この頃の生活を草野自身後に振り返って、「私の青春には生存はあったが生活はなかった。無残な生活はあったが、精神が伸びていくような余裕のある生活はなかった」と語っているが、そのような生存のなかにも、無論人間性のひらめきはあったに違いない。草野はそのようなひらめきをカエルに事寄せて歌ったのだと思う。

数にも入らぬつまらぬ生き物としてのカエルにも命はある。その命は意味のない生存のように思われるかも知れない。人間の場合だって、つまらぬ意味のない生き方しかできないようなものがいるかも知れない。

だが、どんな生存にだって、生きているという事実の重みはある。草野はその重みを歌った。


行進曲:草野心平

  無のまへには
  無限があった
  底もない天井もない無限があった
  始めて胴ぶるひする生命の歓喜があった

  無のうしろには
  無的があった
  遠のいていった
  死んでいった
  消えてしまった
  埋葬曲はローエングリーンだ

  一匹・一つの口
  俺たち幾億の口
  一匹・二つの眼
  俺たち何百億の眼

  (苦痛にまで錯綜する光の氾濫)

  コーラス!
  コーラス!
  コーラスは俺たちの合言葉!
  俺たちのコーラスは世界無比だ!
  生め!
  進め!
  俺たちは地上の第百
  俺たちは地上のドロダマ
  俺たちは万歳するドロダマ
  俺たちは生きる!
  俺たちは死なない!
  俺たちのコーラスは世界無比だ!

カエルが集団としてイメージされているのは、人間の世界におけるプロレタリアの比ゆをそこに意識しているからだろう。プロレタリアは個人としての人間の集まりというより、それ自身が自立した実体のようにも受け取れるが、集合的な存在としての生命は持っている。その存在には目もついているし、口もついている。そして高らかな声でコーラスを歌ったりもする。そのコーラスは世界無比のハーモニーを奏でるに違いない。


    

  
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