日本語と日本文化


桑中喜語


桑中喜語とは桑年にあたっての述懐というような意味である。桑年とは馬歯四十八歳を言う。桑の異体である「桒」の字が、十を四つと八を重ねていることから、四十八を指すようになり、そこから桑年を四十八歳を意味させるようになったものだ。米の字が二つの八と十を重ねたことから八十八となり、そこから米寿を八十八歳を意味させたのと同じことわりである。

それ故荷風散人の「桑中喜語」と題した随筆が散人四十八の年に書かれたものかといえばそうではない。散人がこの随筆を書いたのは大正十三年のことであり、その年散人は馬歯四十六歳であった。にもかかわらずこの随筆を「桑中喜語」と題し、文中「馬歯蚤くも桑年に垂んとして初めておくびの出るを覚えたり」と書いたのはどういうつもりか。

そのへんはあまり杓子ばらぬほうがよいのかもしれない。荷風散人にしてからが、厳密な意味で使ったわけではなく、桑年を眼前に控えてというようなつもりで使ったのかもしれぬ。

それはそれとして荷風散人はこの随筆を以て何を言いたかったのか。淫事即是なりということらしい。つまり散人半生にわたる淫事の体験を一般に披露したいというのである。

その点では柳北先生の名著「柳橋新誌」の轍を踏んでいる感がある。ひとつ大きな違いは、柳橋新誌が芸者評判記の体裁をとっているのに対して、荷風散人のこの随筆は散人自身の芸者遊びの要諦について語っていると言う点である。

散人言へらく、「僕年甫めて十八、家婢に戯る」と。而して曰く、「柳樽に曰く、『若旦那夜は拝んで昼叱り』と蓋し実景なり」と。

年十八にして家婢に戯れるのが、男として早いか遅いかはここでは論じない。ただ散人が一旦女を知るや、生涯その味を味うに余念がなかったことである。この随筆中荷風散人が披露している男女の戯れあいは、蓋し実景であったと思われる。

荷風散人はまた言う、「卯の年に生まれて九星四緑に当たるものは浮気にて飽き易き性なりといへり。凝性の飽性ともいへり。僕はそもそも此年この星の男なり」と。その言葉通り荷風散人の女遍歴たるや、惹かれては飽き、飽きては惹かれるの連続であった。散人自身その遍歴の内訳を日記断腸亭日常の一節において簡単に振り返っている。散人の女趣味の如何についてはその記述に譲るとして、ここでは散人が出入りした色里の風景について眺めてみよう。

散人が色里に出入りするようになったのは明治卅年代のことと思われるが、その頃散人は麹町一丁目の親の家に住んで親のすねをかじっている身でもあり、大っぴらに芸者遊びをできる身分ではなかった。そこで麹町界隈にあった安宿に出入りしたが、その頃麹町界隈には、富士見町に二三十軒、三番町に十五六軒の妓家があったという。

また、「明治四十一二年の頃より大正三四年の頃まで浅草十二階下、日本橋浜町蠣殻町辺に白首夥しく巣を食ひ芸者娼妓これが為に顔色なかりき」と言う。白首と言うのは、文字通り首を白く塗りたくった私娼のことである。この記事からすれば、東京には早くから私娼が活躍していたことがうかがえる。

一葉女子が名作「にごりえ」で描いたのもこの私娼である。「にごりえ」は明治二十八年頃の本郷丸山の私娼窟が舞台であるから、東京の私娼の歴史は非常に古いと言えよう。一葉女子の小説からは、襟元ばかりのおしろいに顔は天然の色白さを誇る様子が、大正十三年の女子の厚化粧に比べて瀟洒な印象を与えると散人は褒めている。

ところで本物の芸者は、明治時代を通じて宴会を飾るになくてはならぬものであった。芸者が宴会に侍って一座を盛り立てれば、宴会の参加者はかくし芸を披露して座を更に盛り立てねばならぬ。そのへんの呼吸を散人は次のように書いている。

「会開かれて酒出れば必芸者現る。芸者現れて御座付きを弾けば、客酔うて必かくし芸をなす。たまたま為さざるものあれば一座挙って之を強ゆ。ここにおいて世に出で人に交らんとするものは日頃密に寄席に赴き端唄都々逸声色なぞを聞おぼえて他日この難題に身を処するの用意をなす。恰も大正の今日西洋料理の宴会に臨むもの、何処で覚えて来るものやら知らねど、大抵テーブルスピーチとかいふものを心得ゐるが如し」

散人が初めて芸者の帯を解く姿を見たのは明治四十一二年頃富士見町の待合にて、その時の勘定はなにもかも一切にて金三円を出なかったと散人は書いている。当時の三円はいまの五六万円ほどに相当すると思われる。

散人は随筆の合間に柳橋新誌以下明治年間に刊行された芸者評判記の類を羅列している。その数三十近くに上るから、この時代に芸者遊びのいかに流行したかがしのばれる。

芸者遊びは大正年間に入っていよいよ流行を極め、それに伴って都内各地に芸者屋町ができた。散人はその町々について次のように簡単な言及をしている。

「およそ大正の世となりて都下に新しく芸者屋町の興りしもの一二か所に止まらず。麻布網代町、小石川白山、渋谷荒木町、亀戸天神なんぞいつか古顔となり、根岸御行の松、駒込神明町、巣鴨庚申塚、大崎五反田、中野村新井の薬師なぞ、僕今日四十を過ぎての老脚にては殆遊歴に遑あらざる次第なり」

そして散人は芸者町屋の繁栄を文芸の興隆ぶりと結びつけて次のように慨嘆するというわけなのである。曰く、「かへすがへす文学雑誌と売女との増加は慷慨の士にあらざるも誰か之を見て寒心せざらんや」と。





  
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