日本語と日本文化


内なる辺境:安部公房の異端論


安部公房のエッセー集「内なる辺境」に収められた三篇の小文はいづれも異端をテーマにしている。安部がこれらの文章を書いたのは、1970年頃のことだが、どういうつもりでこんなテーマを取り上げたのか。異端といえばカミュの「異邦人」の提起した問題意識につながるが、「異邦人」の衝撃は1970年頃にはもう収まっていたはずだから、その影響がこれらの文章を書かせたとはいえないようだ。やはり安部自身の内部に、異端をとりあげさせる動機が潜んでいたのだろう。安部は、正統と異端という対立軸にてらせば当然異端の部類に入るのだろうし、本人もまたそれを自覚していたに違いない。だから彼が自分の生涯の一定の時期に、異端というものを通じて自分に改めて向かい合おうという気になったとしても、それは不自然ではない。

ともあれこれらの文章を読むと、安部が異端をどのような切り口からとらえていたかが、わかるような気がする。単純化して言うと、異端というものを、正統の反対概念として、正統からはじき出されたネガティブなものの概念としてよりも、正統の正統たる所以を問いただす、あるいは正統の正統性への疑問を提起するような、ポジティブな概念としてとらえていると言えそうだ。

一本目の文章「ミリタリィ・ルック」は、ビートルズのアルバムのジャケットを飾っているミリタリィ・ルックを取り上げながら、異端というものは正統に対するアンチテーゼとしての意味をもっていることを強調する。ミリタリィ・ルックが異端として見えるのは、平和の時代を正統なものと人々が考えているからだ、と安部はとらえる。安部がこの文章を書いた頃の日本は、平和にどっぷりと浸かっていたから、そこではミリタリィ・ルックが異端として見えたわけであろう。ビートルズにも異端の雰囲気があったから、それがミリタリィ・ルックを呈すると余計に異端っぽく見えたわけだ。こういうことで安部が何を意図しているのか、いまひとつわからないところがあるが、どうも正統としての平和の欺瞞性を、ミリタリィ・ルックという異端を通してあぶりだしたかったようにも見える。

二本目の文章「異端のパスポート」は、人類の進化にかかわりの深いパラントロプスとアウストラロピテカスをとりあげ、何が正統で何が異端かを問うている。この二つの進化の系列のうち、現生人類につながったのはアウストラロピテクスであり、その点ではこれこそが人類の進化における正統ということになる。ところがこのアウストラロピテクスは、人類の長い進化の歴史において、始めは異端として現われた。というのも、人類の祖先は基本的には草食動物だったのが、アウストラロピテカスに至って肉食に変化したからだ。この異端であったアウストラロピテカスがその後の進化の中で正統の位置に立った。だから異端と正統との境は流動的なのだ、と安部は言いたいのだろう。

三本目の文章「内なる辺境」は、ユダヤ人問題に焦点を当てて、正統と異端の対立について考える。三本の中ではもっとも刺激的な論考を展開したものだ。

この論考を安部は、トルストイとカフカを対立させることから始める。トルストイはロシアの文豪であり、カフカはユダヤ人である。二人とも、それぞれ自分が所属する民族の特殊性を追及することで、それを通じて普遍性を獲得したと評論家はいうが、果たしてそんなに単純なものか、という疑問から安部は考察を始める。トルストイがロシアの特殊性を通じて人類的な普遍性に到達したというのはわからぬではないが、しかしカフカの場合には、ユダヤ的なものの特殊性を通じて人類的な普遍性に到達したとは言えないのではないか、と安部は疑問を呈するのである。

トルストイが普遍的になったのは、人類の一員であれば誰もがそこに自分と共通するものを認めることが出来るからだ。つまりトルストイは人類全体に共通するものを表現している点で、人類にとっての正統性を体現している。だからこそ、人類全体による普遍的な評価を得ることができたのだ。それに対してカフカが体現しているユダヤ的なものは、人類全体にとって共通なものとはいえない。それどころか、人類にとって共通性から外れたもの、つまり異端を体現しているといってよい。ユダヤ的なものは、人類の異端なのである。そう安部は言って、ユダヤ的なものが何故人類全体にとっての異端として認識されるようになったか、その心理的・社会的機制について考察するのである。

安部によれば、人類にとっての正統なあり方とは、土地に土着した生き方、つまり農民的な生き方ということになる。だから非正統としての異端は、その正反対の生き方ということになるが、それは都会的な生き方を意味する。ユダヤ人はこの都会的な生き方を大昔から続けてきた。それゆえ人類の歴史において長い間異端として差別の対象になってきたのである。「トルストイが、ロシア人の心で書いて、人類の魂に呼びかけることが出来たのは、すべての『正統派』の中に、農民的なるものという共通のモチーフがあったせいであり、ユダヤ人の心で書いたカフカの普遍性とは、おおよそ似て非なるものだったのだ」というわけである。

ユダヤ人は、人類にとって正統なあり方である農民的なものの正反対の都会的なものを体現している。「ユダヤ人とは、土地に定着できなかった者のことである。土地に結び付けなかったものが、ユダヤ人だったのだ。言葉を変えれば、『本物の国民』たることが、本来的に不可能な存在だったのだ。無論『国民』になることは出来る。しかし『本物の国民』にだけはどうしてもなりえない。その、本物という、わずかな皮膜にへだてられて、ユダヤ人と、非ユダヤ人とが、ある時決定的な対立関係にはいるのだ」

こうした対立関係は、ヨーロッパではユダヤ人と本物の国民の対立という関係をとるが、ユダヤ人の存在しない国でも、同じような対立はおこる。何故なら、どこの国にも都市的なものは存在するからだ。そうした部分を国家は、異端として排除することで、国家としてのアイデンティティを保持する。国家は自分自身の内部に辺境を作り出し、その辺境を境にして、異端者と本物の国民とを弁別するのである。したがってユダヤ人のいない日本でも、ユダヤ人のような連中は存在する。それは都市的な生活をすることで、土地への結びつきを失い、その結果根無し草のようになった連中のことだ。そういう連中は、コスモポリタニズム、モダニズム、プチブル趣味、西欧的頽廃、ブルジョワ的客観主義、自由主義、デカダンス、ニヒリズムといった毒素を社会に撒き散らし、社会を内部から腐敗させるのである。

こうしたユダヤ的なものの概念規定は、どうも安部自身の自己認識を反映しているようである。安部はおそらく自分自身を異端者として認識しているのだろう。その異端者としての立場から、ユダヤ人に同情を覚え、そのユダヤ的なものをもっともよく体現しているカフカに対して敬意と連帯を表明しているのだろう。もっとも、カフカについて安部は、議論のとっかかりとして持ち出しただけのことで、それ以上詳しく触れることはないのだが。




  
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