日本語と日本文化


反劇的人間:安部公房とドナルド・キーンの対話


「反劇的人間」は、アメリカ人のドナルド・キーンと日本人である安部公房の対話だから、どうしてもお互いの民族性が、だいたい無意識的にではあるが、背後で働くという具合になる。ところで安部公房ほど、日本人でありながら日本らしさに拘らない作家はいない。彼の小説や演劇は、無国籍と言ってもよい、いわばコスモポリタンな世界を描いている。そのことをキーンのほうも感じ取っていて、安部はなぜ日本らしさに拘らないのか、素朴な疑問を呈している。それに対する安部の答えが面白い。戦時中に満州で経験したことが、日本人に対する自分の見方に大きな作用を及ぼし、それ以来日本を斜めに見る癖がついたと言うのである。

安部は満州で終戦を迎えたのだが、そこへソ連兵がやってきた。彼らには満州を占領するつもりはなかったから、一時期治安が空白化した。だが一般の日本人は、おおむねそれまでどおりの日常生活を続けていた。そういう中で、日本人と中国人との間でトラブルが起きるとする。ある日本人が中国人に取り囲まれる。しかし、まわりにいる日本人は助けに入るどころか、知らん振りを決め込んで、そのうち皆いなくなってしまう。これが朝鮮人の場合だと、必ず同胞を助けに入る。そこで安部は、日本人とは、アジアの中では非常に特殊なのだと感じた、と言うのである。

これについて安部は、「日本人というのは世界中でも連帯感の強い国民だと。たしかに政府はそう主張したがる。しかし現実には、どうも日本人の連帯感というのは希薄なんだな」と感じたというのだ。それは日本人が、よく言われるように個が確立していないからではなく、逆に確立しすぎちゃってるからだ。そしてそれは必ずしも悪いことではない、と言うのである。

安部は続けて言う。「これはあんがい発達しすぎた江戸文化の隠れた側面なのかもしれない。非常に個が確立してしまって、冷たくなったために、暖かさとか人情とかが逆に文化の一つの基準になった。日本人は個としてそういうふうに孤独だから、ある群集を組んだときに、異常に群集心理が出る。酔ったようになる。それは滅多にないことだからです」

つまり日本人は、個人としては非常に孤独で冷たくて、異郷の地で同胞が困難に陥っても助けようとしないが、群集を組むと異常な心理に陥って、文明人とは思えないような行動をする、と言うわけである。

日本人のこうしたエゴイスティックな行動が、ほかのいろいろな面でも見られた、と安部は言う。たとえば、満州の治安状態が悪くなると、悪事狼藉を働く者が出てくるが、よく見ると、日本人が日本人に対してそれをしている。中国人に対しては決して行わない。日本人が日本人を襲っていた。しかも非常に残酷な仕方で、と言うのである。「だからぼくは」と安部は言う、「日本人の内部構造について、日本人はとても自分自身に嘘をつくのが上手だという気がしますね。こういう事実はあまり話したがらないのです。しかしこれは厳然たる事実です」

そうした悪い日本人の多くは兵隊崩れだった。悪い連中の中でもっとも悪いのは、憲兵とか特務機関にいた連中で、そいつらは敗戦後すぐに姿を消して、シベリアに連れて行かれずにすんだ。こう安部は指摘して、「この連中がいちばんひどいことをやった」と言う。こういう話を聞くと、敗戦後いち早く満州や朝鮮から脱出したのは関東軍とか満鉄とかの関係者で、一般の日本人は取り残されたという話を思い出す。権力にあずかっていた連中が、もっとも利己的で悪いことをしたわけで、その辺は、ドイツ人と比べても、擁護のしようもないグロテスクな行為だったと言えるのではないか。ドイツでは、敗戦後の混乱のなかで軍人が真っ先に逃げるというようなことは起こらなかったと言われている。

以上は安部の実体験に根ざした話だから、重く受け止めるべきだろう。そんなことがあったからというのでもなかろうが、安部にはたしかに、日本を突き放した目で見ているところがある。決して非難するような視線ではないが、日本的なものを称揚しようとする姿勢はない。言っていれば、中性的な目で日本を見ている。その視線はコスモポリタンのものだ。

こういうわけであるから、安部は、「普遍性を獲得するためには、特殊性を通じなければならない」という主張には首をかしげるのだという。こういうことをわざわざ主張するのは、「なんらかの意味で閉鎖的な考え方につながると思う」ためだと言うのである。ここで安部がイメージしているのは、戦争中に叫ばれたナショナリズムの主張だ。文学の分野でもナショナリズムの風は吹いていて、そこでは「ほんとに普遍性を獲得するためには、日本に帰れという主張」が叫ばれていた。安部はそこに違和感を抱いたわけであろう。

安部が重視するのは、特殊性ではなく個別性だ。個別性というのは、個々の人間のことである。個々の人間を掘り下げることで、そこから普遍性へと通じる。個別は普遍とストレートに通じ合っている。そこに特殊性、つまり国家を入れる必要はない、というのが安部の立場だ。これはコスモポリタンの立場である。




  
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