日本語と日本文化


標準語と方言


日本語に標準語という概念が成立するのは明治以降のことである。それは日本を近代的な国民国家として確立したいとする体制側の強固な意志に基づいていた。明治20年代以降、義務教育のなかで、この標準的な日本語が生徒に教え込まれ、国民は共通の言語を話すという点でも、均一な民族なのだという確信が強められていった。

標準語という概念には二重の意味合いがあった。ひとつは話し言葉としての標準語のあり方であり、もうひとつは書き言葉と話し言葉を通じての標準的な文体がどうあるべきかという点であった。前者は、日本の近代化にとって欠かせない問題と意識され、学校教育や社会教育の重要な課題となった。後者は文学者たちを中心に言文一致運動として展開されていく。

話し言葉についていえば、徳川時代以前には国全体を通じての共通の言語、つまり今日いう標準語のようなものはなかった。もちろんどこの地方でも日本語を話していたのであるから、共通の枠組みはあったが、発話の実際においては地域ごとに著しい相違があった。そのなかで話し手の人口も多く、有力だったのは、京都や大阪を中心にした関西の言葉と、江戸の言葉であった。

江戸は関東の一部であった。だから関東地方で話されていた土着の言葉がそのまま江戸の話し言葉になったかといえば、そう簡単ではない。関東土着の言葉は、いわゆる「べらんめえ」口調として江戸の庶民の間で使われてはいたが、それとは別の話し振りが武家社会を中心に成立していた。それが今日の標準語の直接の祖先である。

江戸の武家社会は各藩の寄り合い所帯のようなものだった。各藩の人々は、国元との往来を通じて地方の言語文化に深く結びついていた一方、幕府や他藩との関係においては地方の文化を丸出しにすることができなかった。そんな彼らは、互いに国許の言葉とは違う共通の言語を話す必要に迫られた。それは江戸土着の言語ではなかった。武家社会という一種のサロンの中で、半ば人工的に作られた第三の言葉とも言うべきものだったのである。

徳川幕府が瓦解して各藩の人々が国許に去り、江戸は一時空っぽに近い状態に陥ったが、江戸の武家社会で使われていた言葉は死に絶えることがなかった。それは新たに東京の主人公になった薩長中心の官僚社会に引き継がれ、いわゆる山の手言葉として生き残る。

明治政府が国語教育において、標準語のモデルとして採用したのはこの山の手言葉だった。明治政府の中で、国語・標準語教育に主導的な役割を果たした上田万年は、標準語として採用すべき言語は「教育ある東京人の話す言葉」だといい、また国語学者岡野久胤は「東京の各社会一般に通用する言語、即ち中流社会の男子の言語」を標準語とすべきだといっている。どちらも山の手言葉を標準語のモデルとして推薦している。

彼らがさらりといっているように、この山の手言葉には著しい特徴があった。

まず第一に、武家社会における共通語の子孫として、作られた言語という色彩が強いことだ。彼らが「教育ある」とか「中流の」とかいっているように、これは自然発生的な言語というより、作られた言語であり、したがって学んで取得すべきものである。その点が江戸土着の言葉とは違う。江戸土着の言葉は、土人が話す野卑な言語であるのに対し、彼らがいう東京言葉は教養ある人士が話すところの上品な言語である。彼らの言説にはこうした意見が強く潜んでいる。

第二に、岡野が「男子の言語」といっているように、男を主な話し手とする点だ。これは山の手言葉の先祖たる武家の言葉が、男社会の言葉であったことの帰結である。武家社会は男の社会であるから、そこで使われる言葉は男によって話されることしか想定していない。女ももちろんその言葉を使ったことはあったろうが、それが言葉の性質に重要な影響を及ぼしたとは考えられない。こんなことから、今日の標準語も、主に男が発話するのに都合のよいようにできている。

第三に、作られた言語という性格からもたらされることとして、山の手言葉は著しく観念的で、乾いた肌合いをもっている。言葉の情報伝達機能には、意味の伝達と情動の伝達とが含まれるが、山の手言葉はもっぱら意味の伝達のほうに重きをおいて、情動の伝達あるいは表出にはあまり適していない。これが観念的だという理由である。乾いた肌合いというのは潤いにかけるという意味だが、これも情動の伝達に不適切なことから帰結されることである。

ところで山の手言葉をモデルにして標準語という概念が成立すると、方言というものに価値の転換が起こった。方言という言葉自体、徳川時代以前には基本的になかったもので、標準語という概念が成立すると同時に、それの対概念として成立したものなのである。

徳川時代以前には、京言葉と対比しての雛言葉などという言い回しはあったが、それぞれの地方の言語の間の序列などは基本的にはなかった。江戸の武家言葉はコミュニケーションの必要から作られたもので、いわば便宜的に使われる言葉であった。したがって全国誰でもが使うべき基準の言葉などという考えもなかった。

ところがいったん標準語が確立すると、それは日本国民全体が話せなければならない標準の言葉であり、方言は無教養な土人が使う野卑な言葉だという考えが生まれた。

こうして言語の間に、新しい差別の構造が出来上がっていく。


    

  
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