日本語と日本文化


茶会と懐石料理:利休の精神


茶が日本で本格的に飲まれるようになるのは、栄西が茶の苗木を宋から持ち帰り栽培するようになってからである。当初は禅寺の中で、修行の一環として飲まれていたのが始まりらしい。茶とともに点心類も伝わり、茶と点心を用いて茶会が行なわれるようになると、その風習は寺院の内部から次第に一般に広まっていた。

茶会が茶の湯という形で洗練されたものになるのは安土桃山時代である。茶の湯には懐石料理がつき物となるが、始めからあったわけではない。懐石という言葉自体元禄の頃にできたもので、当初は茶の子あるいは会席という言葉が用いられていた。その茶の子も、最初の頃は本膳料理を簡素化したものだったらしい。

千利休が茶の湯の道を確立すると、懐石料理も形を整えた。利休はわび茶の思想に基づいて、茶会を伝統的な酒宴から切り離し、付随する料理もきわめて簡素なものにした。

伝統的な本膳料理にあっては、本膳のほかに複数の膳が出され、その内容も宴会の需要に応じて豪華なものになりがちだったが、利休はこれを原則的に一膳とし、しかも一汁三菜にとどめた。「利休百会記」の記述によれば、天正18年9月に古田織部を招いた際の膳の内容は、飯のほかには鮭の焼き物、小鳥の汁、ゆみそ、膾という風に一汁三菜で迎えている。質素きわまる献立であった。

豊臣秀吉のような要人を迎えるときは二の膳を出すこともあったようだが、それでもせいぜい一汁二菜程度のものであった。

上の献立からわかるとおり、膾や魚の焼き物を用いるなど、食材は精進にこだわっていない。そこが禅林の茶会とは違っているところである。また、料理を盛る器にも工夫が凝らされた。当時の器は平皿と、湯飲みのように深い底を持った坪皿が主流であった。平皿には膾や焼き物を盛り、坪皿には煮物を盛った。当時の煮物は今日のものとはことなり、汁仕立てのものが多かったのである。このほか、菓子盆も料理の盛り付けに転用された。こうして器の比重が大きくなるにつれて、織部焼きのように工夫を凝らした陶磁器も作られるようになっていったのである。

利休の後継者である織部や利休の二人の息子たちは、利休の侘び茶の思想を受け継いで、料理には簡素を貫いた。利休の息子小庵は多くの場合一汁二菜をもって茶会を催し、織部は本膳の上に乗せるのは一汁一菜を持って原則とした。

しかしこうしたやり方は次第に捨て去られていく。利休の衣鉢を受けた数寄大名といわれる人びとが、早くも料理の品数を多くし、宴会に華を添える方向を追求しだしたのであった。その後、庶民の間の茶会ではその傾向が強くなっていく。

懐石の文字が始めて登場するのは、黒田藩の家老立花実山が元禄時代に著した「南方録」の中においてである。

「懐石は禅林にて菜石と云に同じ、温石を懐にして懐中をあたたむるまでの事なり、禅林の小食夜食など、菜石共点心共云同意なり、草庵相応の名なり、わびて一段面白き文字なり」

懐石は禅林において、修行中の僧が空腹を紛らわすために、懐の中に温石を抱いて暖めた故事に基づいて生まれた粗末な食事のことであるとし、それが茶会に取り入れられたのだといっている。この言葉はある意味で、時代に対する皮肉でもあった。というのも、時代は利休、織部のころの簡素な料理ではあきたらず、次第に豪華なものへと変化していたからである。

今日も高級料理屋などで、懐石料理と称するものが流行っている。しかし、その内実を見ると、茶会における懐石料理の嫡子というには、あまりにも違う精神が働いているようだ。

むしろ日本古来の本膳料理の伝統が、形を変えて生き残っていると考えられるのである。


    


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