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大川周明の大アジア主義:日本の右翼その八


大川周明といえば、5.15事件を中心とする軍部内の一連のクーデター計画に深くかかわっていたことで知られる。大川はまた、板垣征四郎などを通じて満州事変にも関わっていた。それら軍部内の動きは、日本の国家社会主義化とアジア侵略をめざしたものだった。その二つの目標を大川も共有していた。国家社会主義については、北一輝の存在があまりにも大きいため、大川はとかく北の影に隠れ、その分アジア侵略をめざす大アジア主義者としての側面が強調されるきらいがある。

大川はまた、民間人としては唯一東京裁判でA級戦犯の嫌疑により起訴された。起訴理由は、大川が超国家主義的右翼団体を結成し、日本を軍国主義化したとともに、満洲事変を引き起こして中国侵略を図ったというものだった。大川自身は、大した大物ではなく、右翼団体の内部でもマイナーな存在に過ぎなかったので、これはかいかぶりすぎといってもよかったのだが、時の日本政治の大物と同じような扱いをされたことを、本人はまんざらにも思っていなかったようだ。

大川が東京裁判の席上、前に座っていた東条英機の禿頭をぴしゃりとぶったことはよく知られている。これが裁判官には精神異常とうけとられ、大川は責任能力なしとして裁判から除外された。この逸話については、大川の仮病だとか、茶番劇だとか、いろいろの憶測が飛んだが、梅毒性脳炎の影響だったというのが今日の定説である。

大川が、東京裁判でA級戦犯に仕立て上げられるほど、かれの政治的影響力が大きかったとは思えない。たしかに彼は、軍部内に一定の人脈を持ち、5.15事件やそれに先立つクーデタ計画に深くかかわったことは事実だが、軍部全体を動かしたほどの影響力はもたず、その活動は極めて限定的なものだった。にもかかわらず、5.15事件のインパクトが相当大きかったので、それを首謀した人物として過大な評価がなされた。この事件では、事件の実行部隊の首謀者たちが比較的軽い刑ですんでいるのに対して、大川には相対的に重い刑が課せられた(首謀者の三上卓と古賀清志が懲役十五年、大川も同十五年である)。それには、青年将校たちへの庶民の判官びいきがあったことが指摘される。その判官びいきは、若手将校には向けられたが、民間人の大川には向けられなかった。

5・15事件は、クーデタによる権力奪取と国家改造をめざしたものだった。それに大川が武器や資金の援助という形で加わったことが明かになっている。大川の資金は、徳川義親などの右翼政治家から出ていたといわれる。一方思想的な影響という点では、三上や古賀ら事件の首謀者には、大した思想的バックボーンがあったわけではなく、大川がかれらをどれくらい思想的に掌握していたかについては、あやしげな部分が多い。

大川は行動的な右翼というよりは、学究肌の人物だった。学者にはならなかったが、時代が直面する様々な課題について、学問的な研究を行った。かれの最初の本格的な著作「復興亜細亜の諸問題」(1922)は、欧米列強とくにイギリスによるアジア支配を批判的に分析したものだった。その著作の中で、大川は欧米諸国によるアジアの植民地化を強く批判し、アジア諸国は連帯して欧米に対抗する必要があると言っているが、そのために日本が何をなすべきかについては踏み込んだ意見を言っていなかった。だが、アジアが連帯して欧米に立ち向かうべきだという方向性を大川が打ち出した意義は大きく、やがてそれが大アジア主義へと発展していく。大アジア主義は、アジアの盟主としての日本の役割を強調するようになり、それがアジアの連帯よりも日本のアジア侵略を合理化するものとなっていくのである。

大川自身のアジア連帯感情は、インドの革命家ラース・ビハーリー・ボースやヘーラムバ・グプタを保護した活動に現れている。大川は「復興亜細亜の諸問題」において、すでにインドの独立運動に強い共感を示していたのだが、その共感がインド人革命家の保護という形で現れたといえよう。もっともこの保護活動は、玄洋社の頭山満が中心となっており、大川は脇役に過ぎなかった。その頭山は、孫文をはじめ中国の革命家とも密接な関係をもっていたが、大川は、中国の動向にはほとんどかかわっていない。かれは後藤新平の贔屓で満鉄に奉職したこともあって、日本の満州利権を認める一方、中国自体にはあまり関心を払わなかったといえる。

5.15事件に連座して服役した大川は、五年後の昭和12年10月に出所した。すると早速対外諜報要員の養成機関を設立した。世に「大川塾」と呼ばれるものである。これには、外務省が設立資金を負担し、満鉄、外務省、陸軍が運営資金を負担したというから、要するに政府の機関を民間人の大川に代行させたということになる。その機関の役割は、高度の能力をもった諜報活動員つまりスパイを要請することにあった。そんな性質の機関のトップに、なぜ政府が大川を選んだのか。これはそれ自体興味深い歴史テーマである。ちなみにその機関の出身者は、おもに東南アジア方面で暗躍したようである。

戦後の大川周明は、精神病院をたらいまわしされた後自宅に隠居し、コーランの翻訳などに余生を費やした。昭和三十二年(1957)に七十一歳で死んだときには、大勢の右翼人士がかれの死を惜しんだ。


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