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幸若舞の世界(人間五十年 夢幻の如くなり)


「人間五十年 下天のうちを比ぶれば 夢幻の如くなり 一度生を得て 滅せぬもののあるべきか」 これは、幸若舞「敦盛」の一節、信長が桶狭間の合戦に赴くに際して、謡いかつ舞ったとされるものである。信長は、この一節に人間の転機というものを感じ取り、勇み立って出陣したといわれる。

信長は幸若舞を好み、敦盛のこの一節を口癖のように歌っていたことが、信長公記にも記されている。後年(天正十年)、安土において家康をもてなすための宴を開いた際には、梅若太夫の能と競演させ、幸若八郎九郎のできばえに軍配を上げている。こんなことから、幸若舞は、秀吉、家康にも贔屓にされ、徳川時代の初期には、武士の式楽として、能以上に重んぜられた。しかし、士分に取り立てられた幸若家が、武士であることにこだわるあまり、芸能者としての自分の出自を恥じたため、芸能としての幸若舞は衰退した。

この幸若舞とは、どんなものであったか。本流はすでに途絶えてしまったが、一分派と目される大頭系の舞が、福岡県の大江地方に、大江の幸若舞として残っているので、それを通じて信長の頃の舞のさまを伺うことができる。筆者は見たことがないが、以下の通りだという。

舞手は3人、太夫は立烏帽子に素襖、長袴、手には扇をもつ、ほかの二人も同様のいでたちだが、立烏帽子のかわりに折烏帽子をかぶる。この3人が、小鼓ひとつだけの伴奏に合わせて、詞章を謡いつつ舞うのであるが、舞といっても、能のように優雅なものではなく、両手を開いたり、足拍子を踏んだりと、いたって単調なものらしい。したがって、舞というよりは、謡、語りに比重をおいた芸能のようなのである。

幸若舞は、織豊時代に全盛期を迎えたが、もともとは、曲舞あるいは舞々とよばれた語り物芸能の一派であった。日本の中世時代を通じて、平曲や説教などの語り物が長い命脈を保った中で、曲舞は15世紀の中頃に起こって、16世紀いっぱいに繁栄した。担い手には、近江、河内、美濃、八幡などの芸能集団があり、幸若は越前に根拠を置く舞の座であった。2人舞を舞うところに特色があった。

幸若は、徳川時代になって家の系図を作り、その中で各地の曲舞集団とのかかわりを否定したが、これらの集団はいづれも、声聞師と呼ばれる人々からなっていた。声聞師とは下級の陰陽師であり、祈祷や卜占などに従事する傍ら、曲舞、説経、くぐつの芸などを行う俗聖と呼ばれる芸能民であった。

数ある曲舞集団の中で、幸若のみが傑出した地位を確立したのには、もろもろの事情があるのだろう。あるいは、幸若自らが主張するように、足利に殺された桃井の末裔であることが、集団のなかで高い尊敬を勝ち得た理由であったのかもしれない。

曲舞とよばれるものは古い歴史を有したらしく、世阿弥も「五音」の中で曲舞に言及している。能の舞には「クセ」という部分があるが、それは、観阿弥が曲舞を能に取り入れたのであるというのである。しかしここで言及されている曲舞は、幸若らのものとは違っていたようだ。それは、世阿弥が曲舞を衰退しつつあるように描いているところから察せられる。名は同じでも、中身は異なったものだったと思われる。

世阿弥の晩年、幸若らの曲舞は勃興期にあった。その頃の曲舞は、社寺の縁起物語などの幼稚な唱導文学を脱出して、人間の情念を荒々しく表現するものへと変化していた。このことによって、民衆から広く支持されたのだと思われる。文正元年(1466)京都千本桟敷で催された曲舞に、四五千人の見物雑人が集まったと「後法興院記」の記述にあるほどだ。

曲舞の成功を追って、同じ語り物たる説経もまた、民衆の情念に訴える語りを広め、日本の芸能史に新たな地平を開いていく。曲舞は、幸若の誤算によって、徳川時代初期には表舞台から去ってしまったが、説経のほうは、浄瑠璃と互いに競いあいながら、三味線や操り人形を取り入れて、元禄の頃まで、日本の大衆芸能をリードし続けた。




● 幸若舞「百合若大臣」(日本版「オデッセイ」の物語)




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