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徳田秋声を読む


徳田秋声は、日本の自然主義文学を代表する作家といわれている。そこで自然主義文学とはなんぞやということが問題になる。日本の自然主義文学の牽引者としては、徳田秋声のほかに島崎藤村とか田山花袋があげられるが、かれらはフランスのエミール・ゾラを手本にしていたと言われる。そのゾラが、西欧の自然主義文学のチャンピオンと見なされているので、当然、それとの比較が有意義な作業となる。じっさいヨーロッパの自然主義文学は、文学運動としてはフランスにほぼ留まり、それをゾラが代表していたわけだから、ゾラとの比較で日本の自然主義文学の特徴を云々するのは勢いというものである。

ゾラの文学の特徴をごく単純化して言うと、社会的な問題意識をリアリズムの手法を借りて表現したということになる。だからゾラは基本的にリアリズム作家であって、そのリアリズムが社会的な矛盾の解明に適用されたということができる。藤村や花袋の場合にも、リアリズム的な表現スタイルをとっている。文章には遊びの要素はなく、事象を如実に捉えんとする姿勢を強く感じさせる。しかしかれらがゾラと決定的に違うのは、かれらには、ゾラにあった社会的な問題意識が決定的に欠けているということだった。かれらは社会的な問題を小説のテーマにすることはなかった。では何をテーマにして小説を書いたのか。かれら日本の「自然主義作家」たちは、自分自身のことを小説のテーマにしたのである。藤村の場合には親族の若い女との恋愛が主要なテーマだし、花袋の場合には、年甲斐もなく若い女の肌に執着する中年男のいやらしい情念がテーマである。そのように、自分自身のことを小説のテーマとして取り上げる作家たちを私小説作家と呼ぶようになり、日本の自然主義文学はもっぱら私小説と同義語として言われるようになった。

そういう私小説的な作風を、徳田秋声も共有している。かれの作品は、私小説ばかりではなく、中には通俗受けをねらった作り物のようなものもあったが、やはり彼自身の身辺に取材した小説がもっとも彼らしい作品と言える。出世作となった「新世帯」は自分自身ではなく、かつて交際のあった人物の生き方に取材したものだし、「黴」や「爛」といった小説は妻はまの生き方に取材したものであった。かれの最高傑作と言われる「あらくれ」は、モデルは明らかではないが、やはり彼自身がかかわった女からヒントを得ているようである。これらは厳密な意味での私小説ではなく、「身辺小説」などと呼ばれたりしているが、小説の筋書きや文章の運び方には、私小説との強い類似性を感じさせる。

日本ではなぜ、同じく自然主義文学という言葉が使われても、社会的な視線をほとんど感じさせず、もっぱら作者の個人的な関心の範囲内に閉じこもるような作品ばかりが生みだされたのであろう。こういう作者の個人的な趣味に閉じこもったような作風は、実は私小説ばかりではなく、日本文学全体をつうじて、多かれ少なかれ言えることなのである。日本には日記文学の長い伝統があるが、日記文学とは、要するに日記の形式をとった私小説として親しまれてきたものなのである。そうした私小説的な伝統が、明治の文明開化と出会ったところで、日本特有の私小説の世界が構築されたとみてよい。明治以降の作家たちは、新しい時代の雰囲気の中で、西欧流の文学を模倣することから出発したのであったが、その場合、文章表現の形式については、比較的あっさりと、西欧流のリアリズムの形式を身に着けることができた。しかしその文章スタイルで何か書くかという段になると、かれらには何を書いたらよいかわからなかった。そこで、子供の作文教室ではよくあることだが、とりあえず自分自身の個人的な体験を小説に書いてみようということになった。そこから、日本独特の、ガラパゴス現象ともいえるような、私小説の氾濫という事態に発展したわけである。

日本の近現代文學は、私小説の圧倒的な影響下にある。なかには、荷風や谷崎の系譜に属するような遊びの精神に満ちた作風のものもあるが、それは少数派で、圧倒的多数の作家たちは、リアリズムの文体を用いて私小説的な世界を描き続けているのである。

私小説的な構えは、小説の世界にとどまらず、批評家たちにも伝染した。日本の批評は、客観的な視点からの解説を目指したものではなく、作品について感じた個人的な印象をダラダラと述べる、世に印象批評と呼ばれるものが跋扈しているが、これは、私小説的な関心から読んだ結果の印象を、私小説的に述べているのである。そうした印象批評のチャンピオンと言えるのが小林秀雄であって、かれの文章はどれを読んでも、私小説的な興味を私小説的に開陳したものだといえる。私小説的というのは、いわばマスターベーションのようなものである。小林の文章を読んで人が感じる不愉快さは、ろくでもない男のマスターベーションを見せられたということからくるのだと言える。

徳田秋声が日本文学のために果たした役割は、私小説的な表現スタイルを広く世に普及させたということだろう。その普及の勢いはすさまじかったので、日本文學やその周辺の文化領域では、私小説的な感性が支配的になってしまった。川端康成とか三島由紀夫といった、普通は私小説とは無縁と考えられている作家でも、よくよく眼を凝らしてみれば、やはり私小説的な感性によって駆動されているのがわかる。川端の小説などは、女に対する川端自身の私小説的なこだわりを私小説的に表現したものであるし、三島の場合には、自分のせんずり(マスターベーション)体験まで私小説的作品のモチーフに使っているくらいである。

ところが、その川端が、徳田秋声を褒める文章の中で、秋声を西鶴と並ぶ日本文学の巨匠と持ち上げているが、西鶴や秋声が巨匠であることは間違いではないにしても、その両者を同じような作風として位置付けているのは間違いであろう。西鶴は基本的には俳諧の感覚をもった人であり、その作風は遊びの精神に充ちている。ところが秋声にはそうした遊びの精神はない。遊びの精神を受け継いだのは、荷風とか谷崎であって、かれらはきまじめな日本文壇においては異端児扱いされていたのである。もし荷風や谷崎の影響力がもっと大きかったら、日本文学はもう少しましになっていただろう。

徳田秋声を論じながら、どちらかというと、秋声をけなすようなことになってしまった。そこで公平を期すために、秋声の作品世界の中にもう少し深く入り込んでみたいと思う。

すると思い浮かんでくるのは、秋声が専ら女たちを描いたという事実である。今日秋声の秋声らしい作品と呼ばれているものはすべて、女を主人公にして、その生き方を丁寧に描いている。こんなに女ばかりに拘った作家は他にいないといってよい。荷風や谷崎も女に拘ったが、かれらの女は男の視線の先にある女である。それに対して秋声の女たちは、男の視線の先にある女ではなく、それ自体自立した女である。無論、秋声が好んで取り上げた芸者とか妾といった女たちは、男の慰み者として自覚はしているのであるが、しかし自分を無にしてまで男の機嫌をとるようなマネはしない。自分の身の最後の始末は自分でつけるという覚悟をもっている。だから秋声の描く女たちには、ある種の潔さを感じることができる。その潔さが作品に爽快感をもたらし、そのことで読者は、秋声が女に寄り添っていると感じるのだ。

だが、秋声がいつでも女の立場に立っているかといえば、そうではない。秋声には、人格的に酷薄なところがあって、その性向が時に女に向かって残酷な視線を取らせることもある。秋声の小説に出てくる女たちは、たしかに自立した姿勢を感じさせるのだが、同時に因習にとらわれており、時には馬鹿げた選択をすることもある。それは女が馬鹿なしるしだ、というような突き放した眼も、秋声は時には感じさせるのである。その辺は女を男の愛玩物として割り切りながら、その女に限りない愛情を注ぐ荷風とは大きな違いである。


新世帯:徳田秋声を読む

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