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吉田裕「日本の軍隊」


吉田裕はもともと近代日本の軍事史を専攻していたそうだ。軍事史の視点から日本の近代史を読み解くというものだろう。この「日本の軍隊」と題した本(岩波新書)は、そんな吉田の会心作と言ってよいのではないか。というのも、日本の近代史を軍事的な視点から描き出した本は意外と少ないからだ。この本はそんな状況に一石を投じたものと言ってよい。

書かれていること自体は、よく知られていることが殆どだし、他の研究者によって指摘されていることも多い。しかし、この本の意義は、日本の近代史を軍事的な視点からトータルに描き出したという点にある。この本を読むと、日本の近代史がいかに軍事的な色合いに染まっていたかということがよくわかる。維新直後の徴兵令の発布から、昭和の敗戦に至るまで、日本は軍隊中心の社会であって、あらゆる意味で軍隊の利益が社会を飲み込んできた。そういう意味では軍隊は、日本の牽引役と言ってよかった。

司馬史観ではないが、日本の近代化は明治維新によって始まり、明治の精神こそが日本を偉大な国にした。ところがそれを軍国主義が破壊した。その結果日本は滅亡の淵に追いやられた。だから、昭和はひどい時代であり、司馬の言葉を借りれば「異胎の時代」である一方、明治は偉大な時代だということになる。いまの日本でも支配的なそういう言説は、昭和を堕落させた張本人として軍隊を批判し、軍隊をあらゆる悪の源泉として、すべての責任を負いかぶせている。敗戦時に天皇制イデオロギーの擁護者が、東条一人に戦争責任を負いかぶせて、自分たちの身の安全を図ったのと同じような構図が、もっと壮大な規模で演出されたわけだ。

吉田は、そういう単純な見方にはくみしない。軍隊は、司馬の言うような意味での鬼っこではなくて、近代日本の嫡子と言ってよかった。軍隊はあらゆる意味で日本の近代化の象徴だったのであり、また日本の近代化を正面から推進したエンジンだった。近代日本のシンボルとしては鉄道が取り上げられる。鉄道は産業発展の原動力にもなったが、それ以上に、徴兵制度を推進する役割を持たされていた。これは、吉田自身が言っていることではないが、そうした鉄道に代表されるような、軍隊と日本の近代化との深いつながりは、社会のいたるところに見出される。日本の近代化は軍隊の存在と切り離しては論じられないのである。徴兵令の発布から昭和の敗戦に至るまでの約70年間は、軍隊の時代であり、そうした意味での日本は世界に冠たる軍事国家だと言ってよい。それが近代日本の本質である。だから、昭和の敗戦は、国にとっての敗北である以前に日本の軍隊の敗北だったと言ってよい。よきにつけ悪しきにつけ、軍隊こそが近代日本の映し鏡のようなものだったのである。

そういうわけだから、吉田は軍隊を多面的な視点から捉えている。否定に偏するのでもなく、また必要以上に肯定するわけでもない。一方では、日本の近代化に果たした軍隊の役割を積極的に評価しながら、他方では、その軍隊がなぜ日本を滅亡の淵にまで追いやったのか。その両面から迫っている。

日本の近代化に果たした軍隊の役割を評価することから、吉田はこの本を書き始めているくらいだから、軍隊の功績を非常に高く評価しているのである。その例を幾つかあげると、言語の標準化、食事や服装の西洋化、軍隊内での平等を通じた国民意識の養成といった分野で軍隊は非常に大きな役割を果たした。維新以前の日本は、とても統一国家としての体裁をなしておらず、国民は地方や階級に分断されて、使う言葉も異なっており、日本人としての意識も低かった。そんな庶民に日本人としての自覚を持たせるにあたって軍隊の果たした役割にはめざましいものがあった。先ほども触れたように、軍隊は日本近代化の巨大なエンジンだったのである。

その軍隊がなぜ、日本を滅亡の淵に追いやるような仕儀に至ったのか。この本の後半は、そのことの解明に費やされている。昭和期の軍隊を特徴付けて、吉田は次のような言い方をしている。「天皇の権威を中核に据えた厳格な命令~服従関係、銃剣突撃主義論に象徴されるような極端な精神主義、内務班における私的制裁という名の凄惨なリンチ、国際的な非難の的になった各種の戦争犯罪、等々」。こうしたマイナスイメージはしかし、日本の軍隊の成立時から組み込まれていたものではなく、昭和期に入ってから、とりわけ日中戦争が本格化してから浮かび上がってきた特徴だという。その理由として吉田は、第一次大戦以後欧米諸国が軍隊の近代化に努めたのに対して、日本はそれを怠ったことに求めているが、さらにその先の原因についてまでは言及していない。あたかも日本人に内在する固有の傾向が、上述したような忌まわしい特徴を育んだと言わんばかりである。

ともあれ、昭和期に入って顕在化した懲役遁れの風潮が、上述したような軍隊の野蛮な体質への拒絶反応のようなものに根ざしていたと指摘できる面はあるようだ。吉田によれば、懲役遁れには、エリート層のために巧妙な仕掛けも用意されていた。たとえば「短期現役制度」というものがある。これは、志願を前提に短期で安全な兵役を期待できる制度であって、吉田によれば実質的な兵役忌避の目的に使われていた。中曽根康宏は海軍のこの制度を利用して任官したのだったが、どういうわけか、軍艦に乗せられて、南洋で兵士のための慰安所の経営に従事するはめになった。

中曽根の話はおまけのようなものだが、大戦末期の日本軍がかなり機能不全に陥っていたことは間違いないと言う。

ともあれ、吉田は、「昭和の陸海軍は、日本社会が生み出した異物でも、鬼っこでもなく、私たちの近代化そのものの一つの帰結だった」と言う。その果てに惨めな敗戦があったわけだが、戦い敗れて故国に復員してきた元兵士を待っていたのは、いたわりやましてや尊敬の念ではなく、無視と軽蔑だった。ある復員兵は次のように述懐している。

「私たち天皇の軍隊は、終戦後、武器なき集団として故国に帰ってきた。迎えてくれたのはそれぞれの近親者だけである。私たちは民族自身のために戦ったのではないから、祖国の土を踏んでも、祖国の人たちと、まるで他人のようにしか接しなかった。前線も銃後も、ともに惨憺たる目にあいながら、互いにいたわり合うことさえしなかったのである。このようなみじめな敗け方をした国は、古来、歴史上にその例を見ないだろう」



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