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狂気の戦場ペリリュー


毎年8.15前後になると、アジア太平洋戦争に取材したテレビ番組が報道されてきたが、69回目の8.15を迎えた今年も、それは変わらなかった。NHKスペシャルでは、今年は「狂気の戦場ペリリュー」と題して、ペリリュー島における日米両軍の死闘について報道していた。

ペリリュー島はレイテ島の南東にある島で、日本軍にとってはフィリピン防衛の拠点となる島だった。逆に言えば、米軍にとっては日本攻略の最前線として重要な意味を持つところだった。それゆえ、この島では、両軍が死力を尽くして戦いあったのであり、結果的には日本軍の玉砕という形で終わった。しかし、この島での戦いは、米軍にとって深刻な経験となり、以後この経験を生かす形で、硫黄島での戦いや沖縄戦での住民大虐殺という事態に発展していった。その意味でこの島での戦いは、日本にとってはいまわしい意義をもったものになった。

日本側でこの戦いについて取り上げた歴史家の小島襄氏は、日本軍は10.650人の戦死者を出し、150人が捕虜になったとしている(小島「太平洋戦争」)。氏によれば、日本軍は持久戦の方針を打ちだし、米軍をゲリラ的な波状攻撃で苦しめ、大きな損害を与えた。その攻撃ぶりは、いつ、どこでやられるかわからないという恐怖感を米兵に与え、日本兵への憎しみを強めたという。その結果米軍は、日本兵を人間としてではなく、害虫として受け止めるようになり、害虫相手ならどんなことをしても許されるというメンタリティを育むことになった。戦争末期に米軍が日本人相手に示した残虐性は、こうしたメンタリティに基づいていたというのである。

NHKは今回、この島での戦いをアメリカ側の視点から描いた。ヴァージニア州にあるクアンティコ基地で、この戦いに従軍したカメラマンたちの映像記録が見つかったといって、それを紹介する形をとっている。

米軍の司令官ルパータス将軍は、当初この戦いを三日間でけりをつけると豪語していた。日本軍は得意の「万歳攻撃」に出て来るだろうが、それを圧倒的な戦力で粉砕するというのである。しかし、日本軍は将軍の意に反して「万歳攻撃」に出てこなかった。日本軍は持久戦の作戦を取り、島のあちこちに拠点を設けては、そこを足掛かりにして、波状的なゲリラ攻撃を仕掛けてきた。戦いは三日どころか一か月以上にのび、その間における米軍の戦死者は1500人以上にのぼった。日本兵は、いつ、どこから攻撃を仕掛けて来るかわからない。そんなところで接近戦をすれば、米軍の損害は甚大なものになる。そこで米軍が最終的にとった作戦というのが、日本兵を火力で焼き尽くすというものだった。日本兵が潜んでいる可能性のある場所は、残らず火炎放射器とナパーム弾で焼き尽くす。この結果、まだ生きていた日本兵は悉く焼き殺されたのである。

こうした戦術は硫黄島でも取られ、日本軍は火力で焼き尽くされた。また沖縄では一般人までが火力で焼き殺された。いづれも、ペリリュー島での経験をもとにした、米軍の自軍最小消耗戦略の一環だったのである。

カラー映像から、戦いのすさまじさが如実に伝わってくる。戦いで死んだり傷ついたりした兵士たちのむごたらしい映像とならんで、恐怖のあまり発狂してしまった兵士の映像や、大勢の日本人を殺して呆然としている米兵の映像などが、戦争の理不尽さを訴えかけてくる。

あっと思わせられたのは、日本軍によって処刑されたと思われる日本兵の映像だった。首を切られた死体の映像もあった。この日本兵たちは、おそらく逃亡しようとして捉えられ、処刑されたのであろう。当時の日本軍には、投降と言う選択はなかったから、兵士は敵に殺されるか、味方に殺されるか、あるいは自分で死ぬか、いづれにしても死ぬ選択しか残されていなかったのである。



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