日本語と日本文化
HOME | ブログ本館東京を描く日本の美術日本文学万葉集プロフィール | 掲示板




吉田孝「歴史のなかの天皇」


著者は日本の古代史が専攻だそうだ。その著者が、日本の天皇制を、古代から現代までの長い時間軸のなかで見るとともに、東アジアとのいわば国際関係のなかで位置付けようというのが、この本の基本的な視点だ。というのも、日本の天皇制とは、古代に成立して以降いくつかの大きな変換を経ており、またそれとの関連で東アジア諸国との間で強い影響を及ぼしあってきた。それらを視野に置かない限り、日本の天皇制を正しく理解できないというのが、著者の考えだ。

日本の天皇制の確立がいつ頃のことなのか、まだ定説はないようだ。日本史の常識では、日本という国家の成立と天皇制の確立とはほぼ同義ということらしいから、その日本という国号や天皇という称号がいつから使われるようになったか、それを明らかにすれば、おのずから答えが出ると思われる。ところが、これがなかなかむつかしい。万人が納得するような資料の裏付けが欠けているようなのだ。

著者の推測によれば、日本という国号の成立は天武・持統朝のことだが、天皇の称号の成立はそれ以前のことではないかという。有名な遣隋使(607年)の文書には、「日出ずる所の天子、書を日の没するところの天子に致す」とあるが、この「天子」という言葉が天皇と同じような意味で使われていた。翌年の遣隋使の文書では、「東の天皇、敬って西の皇帝に白す」とあるから、この推測には十分な理由がある。ではなぜ日本の朝廷は、隋という巨大な国の皇帝に対して、無礼になることをはばからず、このような態度をとったのだろうか。著者によれば、日本はそれまで、大陸の巨大国家によって、格下に見られており、臣下としての礼を求められていた。大陸の国家は日本を倭と称し、その支配者を王と称したが、王という称号は、朝鮮半島はじめ他の周辺国の支配者にも与えられており、大陸の支配者には一段劣る存在と位置付けられていた。そういうことに対して、推古朝で国家意識が高まったことを背景に、日本の国家意識を主張したのが、遣隋使の文書の意図ではないかと、著者は推測するのである。

つまり、日本の権力者の国家意識の高揚が、日本の支配者の称号を、大陸国家の陪臣を想起させる王ではなく、天皇という称号を選ばせたのではないか。そうした国家意識の高揚が、「日出ずる国」としての日本という国号につながっていったのではないか、というのが著者の推測である。

このように、日本側が天皇という称号にこだわったのは、大陸の巨大政権を意識してのことであり、その意味では国際関係を反映したものだった。したがって、平安時代になって遣唐使が廃止され、日本が内向きになると、天皇という称号は使われなくなり、天子という呼び方が一般的になった。日本が天皇という言葉を再び使うようになるのは、明治維新以降のことだというのである。

ところで、日本の天皇制は度重なる変転を経て来たと言った。卑弥呼の時代は天皇制ではなく王政の時代であり、しかも女性の宗教的な権威が権力を支えていた。男性の支配者が専制的に支配するようになるのは、雄略天皇の頃かららしい。雄略天皇の幼名はワカタケルといったが、神話の中の英雄ヤマトタケルには、そのワカタケルが理想化されているのではないかと著者は仄めかしてる。ともあれ雄略は大王と称しており、天皇とは称していない。

天皇という称号が用いられるのは天武朝かららしい。天武天皇は、天智系との熾烈な権力争いに勝って権力を掌握するや、天皇を中心とした専制国家体制を築き上げた。天武天皇こそは、日本に中央集権的天皇制国家を築きあげた人物なのである。後醍醐天皇が後に目指したのは、天武天皇時代をモデルにした天皇親政体制なのである。

天武天皇に至る前に、日本の天皇制の血統は二度代わっている。一度目は応神天皇による血統の変更であり、二度目は継体天皇によるものである。応神天皇には不明なことが多く、その実在を疑うものもいるが、もし実在していたとすれば、神功皇后と朝鮮半島人との間に生まれた人物の可能性が指摘されている。一方、継体天皇のほうは、応神天皇累世の子孫と言われているが、おそらく有力な豪族だったと思われる。それが天皇家の入り婿となる形で天皇位を継いだということらしい。それゆえ万世一系の天皇という表現には根拠が欠けているということになる。

平安時代以降、藤原氏の勢力が強くなると、日本の政治権力は分割されるようになる。藤原氏の権力の源泉は、天皇家の外戚となることだったが、それまでの天皇は基本的に内婚だった。その慣例を破って藤原氏が天皇の后を送り込み、外戚としての権威を活用して政治権力を振るった。実際の権力は藤原氏が握り、天皇は日本という国家を一体化するための、ある種の祭祀的な権威に祭り上げられた。これは平家の時代にもそうだったし、鎌倉時代以降にも変わらなかった。時代ごとの政治的権力者たちは、中国の王朝とは異なって、自分自身が権力を占有するのではなく、天皇の臣下という分際を守りながら、天皇の権威を利用する形で、自らの政治的正統性を主張してきた、というのが、天皇制を国是とする日本という国家の基本的なあり方だったわけである。

そのあり方は明治以降も引き継がれた。明治維新は、徳川幕府から薩長藩閥勢力への権力移行をもたらしたクーデタといってよいが、新たに権力を握った藩閥勢力には、自分たちだけの力で国を治めることはできなかった。そこでかれらは天皇を担ぎ出し、その権威を利用することで自らの政治的正統性と権力の維持につとめたのである。

だが、近代の天皇制をよくよく観察すると、天皇は単なる玉の輿にはおさまらない動きをしている。特に昭和天皇については、国政を実質的に動かしてきたといえるような面が指摘できる。歴史学者の多くは、昭和天皇の政治的役割をできるだけ過小評価する傾向が強いが、それは天皇の政治責任をあいまいにして、天皇制を今後とも維持していきたいという思惑を反映しているのではないか。実際には、昭和天皇は政治の動きに大きな役割を果たしたのであるし、先の大戦についても主導的に振る舞ったという事実を指摘できる。昭和天皇の名誉のために言えば、敗戦の受け入れ決定は、昭和天皇の強い意志がなければ実現しなかった。当時の日本の政治的指導者たちには、日本の未来を堅実にリードする能力はないといってよかった。その隙間のようなものを昭和天皇が埋めたおかげで、日本は敗戦を受け入れ、新しい時代に向って踏み出すことができた、と言えるのではないか。



HOME 日本史覚書







作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2008-2020
このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである