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能の歴史と現在


世界中に現存する伝統芸能のうちでも、能は格別に古い歴史を有する。観世流の源流たる大和の結崎座が立てられたのは14世紀半ば、今熊野において催された観阿弥の猿楽が、将軍足利義満の目に留まったのは1375年のこととされているから、そこから数えても600年以上も経っている。

能は、猿楽という芸能から発達した。世阿弥も数多い著作の中で、自らの芸を申楽(さるがく)と称している。猿楽は古い起源を有しており、奈良時代初期に大陸から移入された散楽に発している。散楽は物真似や曲芸などを演ずるもので、演者たちは散楽戸というものに組み入れられて、朝廷に隷属していたとされる。

奈良時代末期に、散楽戸が廃止されると、散楽に従事するものたちは朝廷の保護を失い、興福寺などの大寺院に隷属して、座を組むようになった。この散楽が含んでいた諸々の芸のうち、物真似などの滑稽芸が猿楽として自立していったのである。

室町時代の始め頃、猿楽師たちは、畿内の大寺院を中心に、各地に座を組んでいたようである。そのうち有力なものは、興福寺に従属し、春日大社の神事に従事していた大和の猿楽、比叡山に従属していた近江の猿楽などであった。ほかにも、伊勢、河内、丹後などに、有力な猿楽の座があったことが知られている。彼らは寺社の保護を受けることによって座の組織を維持する一方、寺社が催す祭事などに際しては、芸の披露を義務付けられていた。

申楽談儀に記された「魚(結)崎座之事」という座規の中に「多武峰ノ役ノ事」という部分があって、そこには「大和の国は申すに及ばず、伊賀、伊勢、山城、近江、和泉、河内、紀の国、津の国、このうちにありながら上らずば、長く座を追ふべし」と書かれていた。座を構成する成員たちは、いつも同じところに一緒にいたわけではなく、小集団に分かれて各地を巡業しながら、節目の行事の際には全員が集まっていたことが察せられる。

多武峰ノ役とは、奈良県の談山神社への奉納をさす。結崎座はじめ大和の猿楽座は、春日神社の祭や興福寺の薪能などにも、参勤が義務付けられていたようである。

世阿弥の「花伝」によると、大和の猿楽座には、結崎、外山(とび)、円満井、坂戸の四座があった。外山は宝生流、円満井は金春流、坂戸は金剛流の源流となった座である。

前述したように、畿内各地には数多くの猿楽座があったにもかかわらず、大和の座だけが残り、今日に伝わったことの背景には、観世親子の果たした役割があまりにも大きかったことがある。観世座が、宝生や金春と姻戚関係をもつなど、大和の猿楽座は相互に結びついていた。したがって、観世座の繁栄と共に大和四座も繁栄し生き残ったのであると考えられる。

観阿弥が結崎座を拠点に活躍した頃、大和の猿楽はどのような事情に囲まれていたのであろうか。

猿楽が散楽のうち物真似芸を発展させてできたものであることについては、先に述べた。散楽由来の雑芸には、猿楽のほかに、神子、鉦叩、鉢叩、歩き横行、猿引などがあり、それらに従事するものは「七道の者」といって賎民扱いされていた。「七道の者」とは街道を歩きつつ芸を売るものという意味である。

猿楽師も例外ではなく、観阿弥と同時代の押小路公忠は、将軍義満が観世親子をひいきにするのを苦々しく思い、その日記『後愚昧記』に、「カクノ如キ猿楽ハ乞食ノ所業ナリ。シカルニ賞玩近仕ノ条、世以テ傾寄ノ由。」と記している。

猿楽と似たような芸に田楽があった。田楽もまた散楽由来だといわれているが、発展を見たのは平安時代中ごろ以降のことで、観阿弥の時代にあっては、猿楽以上に迎えられていた。北条氏最後の執権高時が、田楽に現を抜かしたのは有名な話である。また、観阿弥を愛した義満も、猿楽より田楽を高く評価していたといわれる。

観阿弥の頃の猿楽は、大和と近江とで芸風が異なっていたようである。猿楽はもともと物真似芸であり、また神事に際して鬼や神に扮して芸をしていた。観阿弥始め大和の猿楽は、こうした伝統に比較的忠実であり、観阿弥は最後まで物真似の精神を大事にしていたという。これに対して、近江の猿楽は、幽玄を重んじ、芸風も大和に比べ洗練されていたらしい。近江は、バサラ大名として有名な佐々木道誉の支配する国であり、色々な意味で時代の先端をゆく国であったから、猿楽はじめ芸能も、他国よりは洗練されていたのであろう。

このような潮流を前にして、観阿弥は、物真似の精神を原点におきながらも、自らの能に幽玄を取り入れていくようにもなる。

繰り返すが、観阿弥の頃、大和猿楽の徒は「七道の者」としてさげすまれながら、主に農村を舞台に活路を開いていた。観阿弥は、芸においては物真似の精神を大切にし、自らの顧客としては農村の人々を大事にしていた。大和のほかの座も、同じような事情であったらしい。

しかし、都に出て興行的に成功し、しかも将軍の寵愛を受けたりして、上昇していくのに伴い、次第に芸風を変化させるようになる。物真似芸から幽玄の能への変化である。芸において多分に呪術的な要素を含み、農村を相手に生きていた猿楽の徒は、観阿弥の時代を境にして、がらりと異なった道をたどり始める。

能楽が全盛期を迎えるのは徳川時代である。それ以前の能楽は、芸能の一流派に過ぎなかったが、徳川時代になって正式に武士の式楽と認定されることによって、徳川幕府や大名たちの熱い保護を受けるようになった。徳川時代には、能の流派は五座に整理された。世阿弥時代から続く観世、宝生、金春、金剛といった大和四座に起源をもつ流派のほかに、喜多流が新たに加わった。この五座をシテ方といい、その周辺に脇宝生をはじめとしたワキ方があった。シテ方、ワキ方ともに、家の伝統に支えられていた。これら演技を担当する家のほかに、演奏を担当する囃子方がある。大鼓、小鼓、笛、太鼓をそれぞれ担当する。これらもまた長い家の伝統を誇っている。

現代は、徳川時代に完成された能楽の伝統をほぼそのまま受け継いでいる。能楽は明治維新の動乱の際に、一時存亡の危機に陥ったこともあったが、みごと復活し、今日までその命脈をつないでいる。だが、歌舞伎に比較すると人気の広がりはすぼむ傾向にある。


● 観阿弥の能

● 世阿弥の夢幻能(敦盛を例にとって)


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