日本語と日本文化


明暗:漱石を読む


漱石が男女の間をテーマに小説を書く時には、一人の女と二人の男の物語という体裁をとるのが常道だった。その関係は、「それから」や「門」にあっては姦通と言う形をとり、「こころ」においては友人を出し抜いての女の略奪という形をとったわけだが、いずれにしても、三角関係をテーマとしたものには違いなかった。漱石の遺作となった「明暗」も、男と女の関係を主なテーマとしているが、それ以前とは多少異なった結構になっている。この小説では、一人の男と二人の女との関係がテーマになっているのである。

だからこれもある種の三角関係を描いたものに違いはないのだが、普通の三角関係とは多少趣を異にする。三角関係というのは、通常当事者の全員が互いに他の二人を意識しているものだが、この小説に出てくる二人の女は、互いに相手を見たこともない。二人の女は、主人公の津田と言う男を通じて、間接的につながっているだけなのだ。だから、彼女らの間には嫉妬の感情も介在しなければ、そもそも相手の存在そのものを気にすることもない。彼女らはただ、津田という男の頭の中で、空想的な関係を取り結ぶだけなのである。

それ故この小説は、現実を描いたものではなく、空想という非現実を描いたものだと言えなくもない。無論、小説に出てくる人物たちの言動は現実のものなのだが、その行動の意味ということになると、ほとんどナンセンスと言うに近い。彼らには、自分の行動の意味が十分にはわかっていないし、また訳も分からぬままに行動している節もある。それはとりもなおさず、非現実的な関係を巡ってなされることから来る効果なのだと思う。

津田という主人公の設定からして非現実的である。彼は「それから」の代助の延長上にある高等遊民の一人だ。代助とは違って職業を持っているということになっているが、それはまともな職業というよりは道楽のようなものとされている。第一、津田夫婦の生活費用を賄うに値しない。それ故津田は、いい年をしていまだに親の仕送りに頼っている始末なのだ。

そんな中途半端な人間が、一人前の面をして、世の中を渡って行こうとする。だが、もともと中途半端な人間に、本当に一人前なことはできない。その証拠に、息子たる津田の無能ぶりに愛想をつかした父親が、仕送りを停止すると宣言した瞬間に、彼の日常には狂いが出てくる。この小説は、男女の(非現実的・非顕示的な)三角関係を主なテーマにしながらも、高等遊民たる主人公の、無意味でふしだらな生き方を描くことにもなっている。

津田のふしだらな生き方を象徴するのは、妻お延との関係だ。津田はこの女を心から愛していない。何故そんな女と結婚したのか、小説は一切語らない。小説が語っているのは、余り愛のない夫婦が、互いに相手を苦しめる、不毛な戦いに夢中になっているということだ。この戦いを凄惨なものにしているのは、妻お延の姿勢だ。彼女は夫に愛されるだけでなく、夫を自分の意思のもとに屈服させることを願っている。そんな妻の表立った挑戦に、夫の方はぎごちなく応える。彼には、妻をおおらかに抱擁することで、妻を自然と自分の意に従わせるというような芸当ができないのだ。つまり、世の中の事情に疎いボンボンなのである。彼のボンボンぶりは、小林という男との関係においてもっとも典型的に示される。この小林という男は、ある種のアナーキストで、世の中を斜めに見ているのだが、そんな小林が自分に向って発する批判的な言動に対しても、津田は有効に対処することができない。ただ相手から投げられた侮辱の言葉に腹をたてているばかりなのだ。

津田は自立しそこなった人間だから、甘えん坊的なところを残している。彼がその甘えん坊ぶりを最も遺憾なく発揮するのは、吉川夫人が相手の時だ。吉川夫人は、津田に対しては後見的な立場にあり、その立場を足掛かりにして、津田に対しては母性丸出しで接して来るのだが、津田の方もそれを、都合のいいこととして受け取っている。挙句の果ては、この夫人のおせっかいに乗せられる形で、三角関係のもう一方の女である清子との再会を画策するのである。

この清子という女は、小説のだいぶ後の部分で登場し、登場したと思ったら、小説が突然中断してしまうので、十分には描かれ切っていない。だから、読者としては、何とも評価のしようもないのだが、一応は三角関係の当事者ということになっているわけだから、それなりに中身のある女に違いないのだろう。この女は、自分の方から津田を捨てたということになっている。この女に捨てられた津田は、その直後にお延と結婚し、かろうじて体面を保った形にはなったが、女に捨てられたという心の中のわだかまりはなかなか収まらない。彼が吉川夫人をダシにして清子との再会を画策するのは、そのわだかまりに或る程度の始末をつけることが目的だったと思われるのであるが、如何せん小説は、津田が伊豆の温泉で清子と顔を合わせる場面で終ってしまうので、深い事情が展開され説明されることはなかった。

こんな訳でこの小説は、一人の男と二人の女を巡る三角関係を描くことを目的としながらも、三角関係のキーパーソンである清子という女が、そのさわりしか言及されていないために、中途半端なものに終わっている。筋の展開と言う点ではそうなのだが、小説として読ませるところが多いのは、漱石の小説家としての技量のなせるところだろう。じっさい、この小説の中には、いくつかの独立性の高いプロットが嵌め込まれていて、それなりにまとまった話として読ませるのである。

独立性の高いプロットということでいえば、この小説の視点の扱い方にも注目すべきところがある。漱石のそれまでの小説は、基本的には主人公の視点に立った単眼的な視線を通じて描かれていたのだが、この小説の場合には、プロットごとに主人公が交代し、そのたびに視線の変更が行なわれるので、厳密な意味では複眼的とは言えないまでも、視線の多様化と言う効果は発揮されている。視線の多様化は、小説の展開に幅と深みをもたらすと言えるので、これは漱石にとって、かなり重要な意義があったものと考えてよい。

もしも漱石が、いましばらく生きながらえて小説を書き続けたなら、彼はこの視線の多様化ということをもっと追究したのではないか。そんなふうにも思われ、漱石のためにも、日本文学のためにも、遺憾の念を禁じ得ないところだ。




  
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