日本語と日本文化


曽根崎心中は如何に演じられたか


近松門左衛門の浄瑠璃「曽根崎心中」が初演されたのは元禄16年(1703)5月、作品の題材となった心中事件がおきてからわずか一ヵ月後という早さだった。空前の大当たりとなり、その後享保2年(1717)と同4年(1719)年に再演されたが、その後はどういうわけか上演の機会がなく、230年後の昭和30年になって文楽座によって復活上演された。現在我々が接する曽根崎心中は、このときの上演が基本となっている。

だが文楽座による復活上演は、いろいろな面で問題があるとされている。当時近松研究会のメンバーが座談会を開いてこの上演を評価しているが、やはり手厳しい評価を下している。それはこの文楽の台本を書いたものが、この劇の演劇性を強調するあまりに、原作がもっていた語り物としての特徴を軽視しているというものだった。またこの上演では、冒頭の観音めぐりの道行が省略されていたが、それは原作の雰囲気を決定的に損なうものだと、手厳しく批判している。

今日の文楽が近松時代の浄瑠璃の上演様式と非常に異なっていることは、ある意味で時代の流れだから仕方がないかもしれない。それを前提としても、やはり近松の原作が持っていた雰囲気を、なるべく忠実に再現するのも大事なことである。

そこで両者を比較してみたい誘惑に駆られる。だが近松時代の浄瑠璃がどのように上演されていたか、詳しいことはわからない。大雑把な前提で比較ができるというのが実情だ。

今日の文楽の舞台は、明るい光の中で演ぜられる。人形は無論、人形遣いも太夫も三味線弾きも皆舞台の上にせせり出て、観客の前に姿をさらしている。歌舞伎の上演様式と基本的に相違がないほど、舞台の上は明るい。

これに対して近松の時代には、浄瑠璃の舞台というものは暗かった。その暗い舞台の中から人形の姿だけが浮かび上がって見えた。人形遣いは今日のように三人ではなくただ一人であり、その者が人形の陰に隠れ、袖に腕を入れて人形の動きを操作していた。

暗い舞台の中で人形の姿だけが浮かび上がり、しかもその人形は動きに乏しい。観客は人形の動きが主体の芝居をみているというよりも、暗黒の中から聞こえてくる太夫の語りの声に耳を傾けている、それが本来のあり方だったろう。

今日の観客は浄瑠璃という芝居を見に行くといった意識が強いだろうが、近松の時代の観客にとって、浄瑠璃とは聞きに行くものだったのである。

それだからこそ、語りや謡の部分は見せ所、いや聞かせどころだった。それなのに肝心の観音めぐりの道行きの部分を削り取ってしまっては、浄瑠璃が浄瑠璃らしくなくなってしまう。

だがそこにはやはり、現代の観客気質というべきものが作用しているのであろう。曽根崎心中の復活上演にとどまらず、今日の文楽には、原作を現代の観客向けに改ざんする傾向が強いと聞く。それは原作どおりに上演しては、いたずらに飽きられてしまうことへの、恐れがあるのだという。

浄瑠璃を古典芸能として一部の好事家の世界にとどめておかず、一般の観客の支持を得ようとすれば、あるいはそういう傾向も理解できないわけではない。

そうはいってもやはり、浄瑠璃は語りの芸能である。その語りの中からどのようにして現代人にもわかりやすい演劇的な部分を引き出すか。文楽作者ならずとも、むつかしいところかもしれない。


    

  
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