日本語と日本文化


古代人の結婚式:婿取り婚の儀式


古事記の中に、山幸彦(火遠理命)が海底で海神の娘豊玉毘賣命と結ばれ、結婚式の執り行われる様子が描かれている。

「ここに豊玉毘賣命、あやしと思ひて、出で見て、すなはち見めでて、目合(まぐはひ)して、其の父に白ししく、「吾が門に麗はしき人あり」と曰しき。ここに海の神自から出で見て、「此の人は天津日高之御子、虚空津日高ぞ」といひて、即ち内に率て入りて、美知皮之疊八重を敷き、亦た疊八重を其の上に敷き、其の上に坐せて、百取の机代の物を具へ、御饗(みあへ)して、即ち其の女豐玉毘賣を婚(まぐはひ)せしめき。故、三年に至るまで其の國に住みたまひき。」

豊玉毘賣命は自分の意思で山幸彦と結ばれた後、父親に男を紹介して承諾を得、その上で晴れて婚礼の儀が執り行われている。海神は婿を高い座に座らせ、「百取の机代の物」つまりさまざまな料理でもてなし、改めて「婚」すなわち性交を許している。婚礼の後、山幸彦は3年間女の家に同居するのである。

また丹後国風土記には、浦嶼子(浦島太郎)が海底の宮で亀姫と結ばれ、その婚礼には女方の父母はじめ親族や近隣のものも加わって結婚を祝っている様子が描かれている。

この二つの神話に共通するのは、男が女と出会い、女の家族に迎えられて婚礼の儀が行われ、晴れて夫婦となることである。婚礼に男側の家族は参加していない。あくまでも、娘に迎えた婿を、女の親が親類知人に披露するという体裁をとっている。

これは古代における日本人の結婚のあり方を、それなりに反映しているものと思われる。古代社会においては、近世以降に見られる嫁取り婚とは違って、男が女のもとに通う通い婚や、女方の家族と同居する妻方同居婚が支配的であった。だから、結婚式たる婚礼の儀も、これらの神話に描かれたように、女の家族が中心となって行われたと思われるのである。

結婚後、互いの関係が安定するまでのいわゆるハネムーンに相当する期間、新婚の夫婦は女方の家の一角に小さな小屋を作って、そこでむつまじく過ごした。この小屋を「つま」という。配偶者の「妻」という意味ではなく、母屋に対して端(ツマ)にあるという意味から出た言葉である。男がここに通ってくることをだから、「ツマドヒ」(妻問)といった。古事記は山幸彦が3年間海神の家に滞在したといっているが、それはおそらく「つま」に住んだことを意味しているのであろう。

神話に描かれたような婚礼の宴が、一般人の間でも盛んに行われていたのか、詳細はわからぬが、それに似たようなささやかな宴が行われたことは想像できる。またその場合に、女方が主導権をとったであろうことも推察されるが、婚礼の儀が派手に行われるようになるのは、10世紀以降、家の制度が確立してからというのが、一般的な見方である。

家の制度が確立してくると当然、戸主たる父親の権威が強まってくる。古事記では娘が決めた結婚を父親が事後承諾するように描かれているが、平安時代中期以降には、家の比重が重くなって、結婚は家と家との新しい関係といった様相を呈してきた。だから、男女が結婚をするときには、それぞれの家族に相当の披露をするのが必要なこととなってきたのである。

だが、平安時代中期においても、婚礼の儀は嫁取り婚ではなく、婿取り婚の体裁をとっている。婚礼には婿方の家族も介入するようにはなるが、婚礼を主催するのはあくまでも女方の家族である。

ここに平安時代中期の婚礼の一例として、藤原道真と源雅信女倫子との結婚を取り上げてみよう。

道長は言うまでもなく藤原氏の栄華を極めた人物である。しかし若い頃は摂関家の子ではあっても三男であり、まだ将来が定まっていたわけではない。道長は倫子の父雅信に取り入ってようやく承諾を得ると結婚に向けての準備を始めた。

まず夜半に婿行列を組んで女方の家に赴き、そこで初夜を過ごす。翌朝自分の家に戻ると女に対して「後朝使」(きぬぎぬのつかひ)といわれるラブレターを送る。これを三日三晩繰り返した後、妻方の家から婿に対して「三日夜餅」というものが振舞われる。

これで結婚の証が立ったということになり、いよいよ婚礼の儀が行われる。婚礼を主催するのは女方であり、道真の親はそこには出ていない。伝統的にあった、女が男を迎えるという構造がここにも貫徹されているのである。

婚礼がすむと、道真は源雅信の屋敷に同居する。妻方居住婚である。やがて倫子は子を生むが、その子は父親たる藤原の姓を名乗る。このように妻方に婿入りしても、子が父の姓を名乗る風習は古くから根強く伝わるものだったらしい。

この婚礼について源雅信は、はじめひどく迷惑がっていたらしい。それといのも、女方が何から何まで負担するというやり方を苦々しく思ったからだともいわれている。当時はようやく家の制度が確立し、家長たる男を中心にしたあり方が支配的となりつつあった時代なので、男の親が表面に出ず、女方ですべてを仕切るやり方が、時代遅れに感じられたのだろう。

藤原道真と源雅信女倫子との婚礼の形式は、古い母系社会的なあり方と、新しい男性中心の家のあり方との、接点に起こった過渡的現象だったのだろう。やがて結婚は女を男の家に迎え入れる嫁取り婚へと変化していくのである。


    


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