日本語と日本文化


子規の埋葬談義(死後をめぐって)


正岡子規の随筆に、「死後」と題する一篇がある。死の前年、明治34年の2月に書かれた作品である。晩年の子規は、20台半ばにかかった結核がもとで脊椎カリエスを患い、常に死と向かい合った毎日を送っていた。カリエスが悪化して、腰に穴が開くほど苦しい目にあいながら、結核菌が頭脳を明晰にしたためか、創作意欲は衰えることなく、「病床六尺」を始めとして、死に至るまで名品を生み出し続けた。そんな子規が、自分の死を、埋葬に事寄せて語ったのがこの作品である。全篇に子規持ち前のユーモアがあふれ、実にすがすがしい読後感をもたらしてくれる。

一篇は、死後棺に入れられることの窮屈さを嘆くことから始まり、土葬、火葬、水葬、風葬、ミイラという具合に、埋葬の各形態について、それぞれの長短を詳細に分析している。死を間近に控えた者がいうだけあって、その言い分には、当事者としての迫力がこもっているのである。

まず、棺は窮屈でいやだという。ただでさえ狭い空間の中に寝かされたうえ、身体のまわりにおが屑やら樒やらを詰められて身動きできなくなり、あまつさえ釘まで打たれたのでは、生き返ったときに手足を動かすことができぬ。願わくは、蓋のない棺に寝かせてほしいという。これにつけて思いなされるのは、今日の葬儀においても、死者は棺の中に寝かされ、あの世に旅立つ準備をすることにおいては、子規の時代と変わっていないということだ。さすがにおが屑を詰められることはなくなったが、愛する者たちとの最後の別れを告げた後には、やはり棺の蓋に釘を打たれる。すぐに火葬場の炉の中で焼かれてしまうのであるから、なにも釘を打つことまでは必要なかろうと思われるのだ。

埋葬の中で、子規が最初に取り上げるのは土葬である。土葬は今でも、地方によってなされている。日本の法律で埋葬について取り締まっているのは、旧厚生省所管の「墓地及び埋葬に関する法律」というものであるが、そこでは火葬が原則とされ、土葬は前時代の遺物のような扱いを受けている。衛生上土葬は好ましくないという理由からである。しかし、子規の時代にあっては、土葬が広範に行われていたであろう。子規がいうように、寝棺で葬られるものもあり、座棺といって、足を折り曲げて座った姿勢のまま、縦に長い円柱様の棺に籠められて葬られる方法もあった。

この土葬というものについて、子規は一種恐怖感のようなものを以て語っている。

「寐棺の中に自分が仰向けになってをるとして考へて見玉へ、棺はゴリゴリゴリドンと下に落ちる。施主が一鍬入れたのであらう、土の塊が一つ二つ自分の顔の上の所へ落ちて来たやうな音がする。其のあとはドタバタドタバタと土は自分の上に落ちて来る。またたく間に棺を埋めてしまふ。さうして人夫共は埋めた上に土を高くして其上を頻りに踏み固めてゐる。もう生きかえってもだめだ、いくら声を出しても聞こえるものではない・・・」

生きたまま埋められたらどうしよう、埋められた後に生き返ったらどうしよう、この問は、古来人類に共通した煩悩であった。人は死んでしまった後でさえ、この世の未練が捨てがたい生き物らしく、その未練が幽霊ともなって現れるのであろう。こうした心情をテーマにしたものに、エドガー・アラン・ポーの有名な小説「早すぎた埋葬」がある。死んだと思われて地中に埋葬されたものの、何かの拍子に生き返ってしまった者の恐怖と絶望を描いた作品である。子規がこの作品を読んでいたかどうかについては確証がないが、子規の文章には、変人ポーに通ずる、人間の煩悩を突き放してみているようなところがある。

次に、子規は火葬について語る。日本の火葬は伝統的に野焼きとよばれ、屋外にうず高く組んだ薪の上に棺を載せ、時間をかけて焼くというものであった。またの名を、穏坊焼きともいった。ところが、子規の時代には火葬炉というものが導入され始め、東京など都会においては、火葬場の炉の中で焼かれるものが増えてきていた。それが子規の気にはいらなかったらしく、次のように鬱憤を吐いている。

「煉瓦の煙突の立ってをる此頃の火葬場といふ者は棺を入れる所に仕切りがあって其仕切りの中へ一つ宛棺を入れて夜になると皆を一緒に蒸焼きにしてしまふのじゃさうな。そんな処へ棺を入れられるのも厭だが、殊に蒸し焼きにせられると思ふと、堪まらぬわけじゃないか。手でも足でも片っぱしから焼いてしまふといふなら痛くてもおもひ切りがいいが蒸し焼きと来ては息のつまるやうな、苦しくても声の出せぬやうな変な厭な感じがある。其上に蒸し焼きなんといふのは料理屋の料理みたやうで甚だ俗極まってをる。火葬ならいっそ昔の穏坊的火葬が風流で気が利いてゐるであらう・・・」

子規は、火葬炉で焼かれることについて、かなり混乱した認識を持っていたようだ。少なくとも現代においては、火葬炉の中の温度は、摂氏700度から900度に保たれ、棺は無論遺体もまた速やかに衛生的に焼却される。じりじりと蒸し焼きになるということはもちろんなく、子規のようにあれこれと愚痴をこぼしたり、洒落をいったりするまもなく、人間はごくあっさりと骨ばかりになれるのである。むしろ、現世への未練を瞬時のうちに断ち切ってくれ、さばさばとして骨になることができるのであるから、こんなにあとくされのないことはない。

子規はこのほか水葬、風葬について語り、自分はできたらミイラにしてほしいというような口吻をもらしている。(実際、同時代人の中には、福沢諭吉のように、色々な事情が幸いして、ミイラになれたものもあったのである。)

これらの埋葬法は、大昔においては行われていたかもしれないが、子規の時代にあっても、すでに認められるものではなかった。

子規は、この文を書いた翌年の秋に亡くなった。享年36であった。その遺骸は、友人たちに見守られつつ、田端の大龍寺に土葬せられた。しかして埋葬から数年経て後、その墓の上に、陸羯南の手になる石碑が立てられた。子規は土中の棺の中で、果たしてどのように感じたであろうか。


    


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