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はいずみ(四):堤中納言物語


男うちおどろきて見れば、月もやうやう山の端近くなりにたり。「怪しく、遲く歸るものかな。遠き所に往きけるにこそ」と思ふも、いとあはれなれば、
  住み馴れし宿を見捨てて行く月の影におほせて戀ふるわざかな
といふにぞ、童ばかり歸りたる。

いと怪し。など遲くは歸りつるぞ。何處なりつる所ぞ」 と問へば、ありつる歌を語るに、男もいと悲しくてうち泣かれぬ。 「此處にて泣かざりつるは、つれなしを作りけるにこそ」 と、あはれなれば、 「往きて迎へ返してむ」 と思ひて、童に言ふやう、 「さまでゆゝしき所へ往くらむとこそ思はざりつれ、いとさる所にては、身もいたづらになりなむ。猶迎へ返してむとこそ思へ」 と言へば、 「道すがら小止をやみなくなむ泣かせ給ひつるぞ。あたら御さまを」 といへば、男、「明けぬさきに」とて、この童供にて、いと疾く往き著きぬ。

げにいと小さく、あばれたる家なり。見るより悲しくて、打ち叩けば、この女は來著きにしより、更に泣き臥したる程にて、 「誰そ」 と問はすれば、この男の聲にて、
  涙川そことも知らずつらき瀬を行きかへりつゝながれ來にけり
といふを、女、いと思はずに、似たる聲かなとまであさましう覺ゆ。

「開けよ」 といへば、いと覺えなけれど、開けて入れたれば、臥したる所に寄り來て、泣く泣くをこたりを言へど、答へをだにせで泣く事限りなし。

「更に聞えやるべくもなし。いと斯かる所ならむとは、思はでこそ出し奉りつれ。かへりては、御心のいとつらく、あさましきなり。萬は長閑に聞えむ。夜の明けぬ前に」 とて、掻き抱きて馬にうち乘せて往ぬ。女、いと淺ましく、「いかに思ひなりぬるにか」と、呆れて往き著きぬ。

おろして二人臥しぬ。萬に言ひ慰めて、 「今よりは、更に彼處へ罷らじ。かく思しける」 とて、又なく思ひて、家に渡さむとせし人には、 「此處なる人の煩ひければ、折惡しかるべし。この程を過して、迎へ奉らむ」 と言ひ遣りて、唯こゝにのみありければ、父母思ひ歎く。この女は、夢のやうに嬉しと思ひけり。

(文の現代語訳)

男がはっと目を覚まして見ると、月も次第に山の端近くに傾いている。「不思議だな、童の帰りがこんなに遅いなんて。きっと遠くへ行ったに違いない」と思うにつけても、元の妻がたいそうかわいそうなので、
  住み慣れたこの家を見捨てて月も傾いていくように、去ってゆく妻が恋しく思われることよ
と言っているうちに、童が一人で帰ってきた。

「ずいぶん不思議なことだ。なぜ帰りが遅くなったのだ。どんなところへ行ったのだ」と男が問うと、童が妻からことづかった歌のことを語る。男はそれを聞いて悲しくなり、涙したのであった。「あれがここで泣かなかったのは、わざと平気を装っていたのか」と、可愛そうに思われる。そこで、「迎えに行って連れ戻そう」と思い、童に向かって、「そんなにひどいところへ行くとは思わなかった、そんなところでは、体もこわしてしまうだろう。やはり連れ戻そうと思う」と言うと、童が「道すがら泣き通しでいらっしゃいました。ほんとに、奥様が気の毒です」と言うので、男は「夜があけぬうちに」とて、この童を伴い、たいそう早く妻のもとへ着いたのであった。

なるほど、とても小さく、荒れ果てた家であった。男は見ただけで悲しくなり、戸を叩けば、妻はここへ着いたときよりも更に泣き伏していた様子で、「誰ですか」と問わせれば、夫の声で
  あなたの言ったという涙川がどことも知らず、辛い川の瀬を行ったりきたりしてたどり着いたのです
と言う。女はそれを聞いて、思いがけなくも、夫に似た声だなと、あっけに取られたのであった。

男が「戸をあけよ」と言うので、わけがわからぬままに戸をあけて入れてやると、女が寝ている所に寄ってきて、泣きながら詫び言をいうのだが、女はそれに応えず泣いてばかりいたのだった。

「なんとも申し訳がない。こんなところとは思わずに、あなたをお出ししてしまった。かえって、なにも言わないで出て行ったあなたのお心が辛く思われ、あきれるのです。万事は家に戻ってからゆっくりとお聞きしよう。夜が明けぬ前に家に戻ろう」と言って、男は妻を掻き抱いて馬に乗せ、家に向かったのだった。女のほうは、呆然として、夫が「どのような心持になったのか」と、いぶかしい思いで家に戻ったのだった。

妻を馬から下ろして、夫婦二人で横になった。男は妻をさまざまに言い慰め、「これからはもうあの家へは行かぬ。あなたがこんなに辛い思いをした報いだ」と言っては、妻を比べようもなくいとしく思いなし、家に迎えるつもりだった新しい女には、「元の妻が病気なので、都合が悪い。病気が治ったらお迎えしよう」と伝言して、元の妻のもとにいつづけたのであった。新しい女の両親はがっかりしたが、元の妻は夢のようにうれしいことだと思った。

(解説と鑑賞)

男は、戻ってきた童から妻の様子を聞き、また妻が読んだ歌を通じて彼女の気持を知るにつけて、にわかに妻へのいとしい感情がこみ上げてきて、自分のしたことを後悔する。そこで、童を伴って妻のもとに駆けつけ、よりを戻そうと図る。妻のほうでは、そんな夫に対して怒るでもなく、かえって元のように愛されるようになったことを喜ぶ。

ずいぶんと主体性のない、浮草のような存在に見えるが、この時代の女性とはこのように頼りない存在だったのかもしれない。


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