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花々のをんな子(三):堤中納言物語


この女たちの親、賤しからぬ人なれど、いかに思ふにか、宮仕へに出したてて、殿ばら、宮ばら、女御達の御許に、一人づゝ參らせたるなりけり。同じ兄弟ともいはせで、他人の子になしつゝぞありける。この殿ばらの女御たちは、皆挑ませ給ふ御中に、同じ兄弟の別れて候ふぞ怪しきや。皆思して候ふは知らせ給はぬにやあらむ。好色ばらの、御有樣ども聞き、嬉しと思ひ至らぬ處なければ、此の人どもも知らぬにしもあらず。

かの女郎花の御方と言ひし人は、聲ばかりを聞きて、志深く思ひし人なり。 瞿麥の御人といひし人は、睦しくもありしを、いかなるにか、 「見つともいふな」と誓はせて、又も見ずなりにし。 刈萱の御人は、いみじく氣色だちて、物言ふ答へをのみして、辛うじてとらへつべき折は、いみじくすかし謀る折のみあれば、いみじくねぶたしと思ふなりけり。

菊の御人は、言ひなどはせしかど、殊にまほにはあらで、 「誰、そまやまに」 とばかり仄かに言ひて、ゐざりいりしけはひなむいみじかりし。 花薄の人は、思ふ人も又ありしかば、いみじくつゝみて、唯夢の樣なりし宿世の程もあはれに覺ゆ。

蓮の御人は、いみじく思ひたのめて、 「さらば」と契りしに、騷しきことのありしかば、引き放ちて入りにしを、「いみじ」と思ひながら許してき。 紫苑の御人は、いみじく語らひて、今にむつましかるべし。 朝顔の人は、若うにほひやかに愛敬づきて、常に遊び敵にてはあれど、名殘なくこそ。

桔梗は常に恨むれば、 「さわがぬ水ぞ」と言ひたりしかば、 「澄まぬに見ゆる」など言ひし、にくからず。何れも知らぬは少くぞありける。其の中にも、女郎花のいみじくをかしく、ほのかなりし末ぞ、今に、「いかで唯よそにて語らはむ」と思ふに、心憎く、「今一度ゆかしき香を、いかならむ」と思ふも、定めたる心なくぞありくなる。

至らぬ里人などの、いともて離れて言ふ人をば、いとをかしく言ひ語らひ、兄弟といひ、いみじくて語らへば、暫しこそあれ。顔容貌の、などかくはある。物言ひたるありさまなども。この人にはからるる人、いと多かり。宮仕へ人、さならぬ人の女なども謀らるゝあり。

(文の現代語訳)

この女房たちの親は、卑しからぬ身分の人でしたが、どう思ったのか、娘たちを宮仕えに出して、殿ばらや宮ばらや女御たちのもとに、ひとりづつ別々に参上させたのです。同じはらからとも言わせずに、それぞれ他人の子だということにしていました。彼女らが仕えている殿ばらの女御たちは、互いにライバル同士でしたが、それに別々にお仕えしているのが不思議です。女御たちが彼女らを気に入っているのは、そのことを知らないためでしょうか。この好色者の男は、女御たちの消息を聞いては、至らぬところがなかったので、これらの女房のことも知らないわけではなかったのです。

あの女郎花のお方に言及した女房は、男は声を聞くのみで、深く思っていた人でした。瞿麥の人のことに言及した女房は、むつまじくなったのですが、どうしたわけか、「あったといわないで」と誓わせて、二度とあってくれなくなりました。刈萱のことを申した女房は、たいそう気取って、男の言葉に空返事をするばかりでしたが、かろうじて捕まえたと思ったら、はぐらかしてばかりなので、すごく癪にさわると思っていたのでした。

菊のお方に言及した女房は、言葉はかわしましたけれど、そんなにまじめにはなってくれず、「誰、そまやまにいるのは」などとほのかに言いながら、部屋の奥にいざって入っていった様子がすばらしく思えたのでした。花薄に言及した女房は、他に思う男がいましたので、たいそう人目をはばかって、ただ夢のような逢引だったとしみじみ思われたのでした。

蓮に言及した女房は、たいそう思わせぶりをした挙句、「それでは」と約束したのに、騒がしいことが起こって、男を振りほどいて奥に入ってしまったのが、「あんまりだ」と思われましたが、許してあげたのでした。紫苑の人に言及した女房は、深く契りあって、いまでもねんごろな仲です。朝顔に言及した女房は、若々しくて愛嬌があり、いつも遊び相手になっていましたが、名残惜しいという感じが起こらないのでした。

桔梗に言及した女房は、いつも男を恨むので、「騒がぬ静かな水なら私の影も宿りましょう」と言ってやりましたが、「澄まない水に影が宿りましょうか」と言い返したところが、かわいらしい。こんなわけで、どの女房も、男の知らないものはいないのでした。そんな中でも、女郎花の女房が、たいそう風情があって、ほのかにその姿を見たりすると、今でも、「どうかして、物越しにでも語り合いたい」と思われるのでしたが、心憎く、「もういちどゆかしい香りに触れたい」と思いましても、当の女房は、上の空でいるのでした。

この男には、至らぬ里の女が、よそよそしくしていても、たいそうおかしく語りかけ、兄妹の契りなどとおだてて、仲むつまじくしているうちに、やがてなびいてくるのです。顔かたちがすてきだとか、ものをいう仕草がすばらしいとか言って。そんなわけで、この男に騙される女はたいそう多いのです。宮仕えの人や、普通の身分の女などにも騙されるものがいるのでした。

(解説と鑑賞)

これら大勢の女たちが同じはらからであるにもかかわらず、それぞれ他人のような顔をして女御たちに仕えているわけが語られたあと、その女たちとすき者の男との関係が語られる。

男のほうが一方的に思っている女、いったんはねんごろになったもののすぐに振られてしまった女、ずっとねんごろにしている女、つんとすまして憎らしいが、かわいくもある女など、さまざまな女がいる中で、男がもっとも惚れているのは女郎花の女御に仕えている女だと言われる。その女はしかし、男の思いに応えてくれそうにない。こんなことは珍しいことなので、大体の女はこの男にコロリと騙されてしまうのだと言う。

面白いのは、この女たちが同じはらからだということだ。男はそのことを、今まで知らずにいたわけだが、女たちのほうも、それぞれ同じ男を相手にしていたことを、どうも知らなかったらしい。そこが、この物語のもっとも面白いところだろう。


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