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中論を読むその十四:四つのすぐれた真理の考察


「中論」第二十四章は「四つのすぐれた真理の考察」である。四つのすぐれた真理とは、四諦とか四聖諦とかいわれるもので、釈迦の初転法輪のなかで説かれた仏教の根本真理である。したがって、大乗のみならず、いわゆる小乗もこれを根本真理としている。だが、その解釈が微妙に違う。その違いを明らかにして、空の立場から四諦をとらえることの重要性を説いたのがこの章の内容である。

まず、四諦の内容について押さえておくと、四諦とは苦集滅道をいう。苦とはこの世は苦からなっているという真理であり、集とは苦の原因としての煩悩の集積という真理であり、滅とは煩悩を滅しつくして涅槃に至るという真理であり、道とは涅槃に達するための修行を示した真理である。しかもこの四つは因縁によって繋がっている。すべては苦の原因としての煩悩から生じるのであるから、煩悩を滅却すればあらゆる苦悩から解放されて涅槃にいたることができるのである。

この四諦について、小乗と大乗とでは異なった解釈をする。具体的には、小乗を代表するものとしての有実体論者(説一切有部ともいう)と大乗を代表するものとしての中観派との間の相違である。この相違にもとづいて、有実体論者が中観派の空の思想を批判し、それに対して中観派のナーガールジュナが反論を加えるという構成になっている。

まず、中観派の空の思想に対する有実在論の批判が取り上げられる。その批判の要点は、もしも中観派の言うように一切が空ならば、生も滅も存在せず、したがって四諦も成立しないということになる、というものだ。

これに対してナーガールジュナは、有実在論は空というものをはき違えていると反論する。ナーガールジュナは、真理に二つのレベルを指摘する。ひとつは究極的な真理、もう一つは世俗的な真理である。釈迦が説法をなすときには、衆生の理解能力を勘案して、わかりやすい世俗の真理に依拠することがある。それは方便のためである。あくまでも方便であるから、それにとどまっていてはならない。そこを突き抜けて、究極の真理に至らねばならない。ところで、有実在論が空についてイメージしているのは、世俗的なものとしての空である。それは無とほとんど同義のものと考えられる。そのような立場からは、真理は実的な根拠をもたないことになり、したがって四諦も実在的な根拠を失う。

だが、空の究極的な意味は、すべてのものは縁起によっており、それ自体において実体性を持つことはないというものだ。そのような立場からすれば、縁起があるからこそ、四諦も成り立つことになる。かえって有実在論者のように、あらゆるものに実体性を認めれば、そこに生滅の生ずる余地はなくなり、したがって縁起の働く余地もない。

というわけで、有実在論と中観派との相違の根本的な原因は、すべての存在を実体的なものとして、したがって自立した存在としてとらえるか、あるいは、縁起によって媒介された相対的で非自立的なものとして捉えるかという差異から生じるといってよい。有実在論者はこの相違をわきまえず、自分勝手に解釈した空の概念をもって、中観派の主張を攻撃しているのである。ナーガールジュナはそんな論敵を次のように批判する。「汝は自分のもっている色々な欠点を、我々に向かって投げつけるのである。汝は馬に乗っていながら、しかも馬を忘れているのである」

中観派の主張の積極的な内容は、次のような形で表現される。もしも有実在論者のように、「それ自体(自性)にもろもろの事物の実有であることを認めるならば、もしもそうであるならば、汝はもろもろの事物を因縁なきものとみなすのである・・・どんな縁起でも、それを我々は空と説く・・・何であろうと縁起して起ったのではないものは存在しないから、いかなる不空なるものも存在しない」。要するに、空の解釈が、有実在論と中観派とを隔てる最大のポイントになっているわけである。


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