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中論を読むその十一:アートマンの考察


アートマンとは我とか自我と訳されるように、主として心の担い手としての主体をさす。中観派の思想は、その我について、「我(アートマン)なるものはなく、無我なるものもない」と説く。これを形式論理学の言葉でいえば、Aなるものはなく、非Aなるものもない、ということになる。一見して論理の破綻のように見えるが、中観派とは、形式論理の否定の上になりたつのである。形式論理を中観派は分別の作用だとする。しかし分別の作用から得られるのは戯論であるというのが中観派の思想である。

第十八章「アートマンの考察」は、まず、我(アートマン)とわが物(アートマンに属するもの)とを区別し、そのうえで、「これは我である」とか「これは我のものである」とかいった観念が滅びたときに、執着がとどめられ、そこから生が滅びることになるという。生が滅びれば、業と煩悩とが滅びてなくなり、解脱がある。業と煩悩とは分別思考から起こる。そうした分別思考は、空においては滅びるのである。

空は、基本的には心の達する境地である。その境地に達すると、心そのものが滅するのである。心が滅すると言語の対象もなくなる。言語の対象とは、五蘊という言葉で表される物質界のことである。その物質界が存在しなくなるのである。

五蘊は生じまた滅するが、真理は不生不滅である。ニルヴァーナ(涅槃)の如くであるといわれる。ここで、真理即ち真実に関してつぎのようにもいわれる。「一切はそのように(真実で)あり、また一切はそのように(真実で)はない。一切はそのように(真実で)あるのではないし、一切はそのように(真実で)ないのではない」

これは、例によって中観派独特の言い回しである。非常にわかりにくく、論理が破綻しているようにみえるが、要するに、分別は相対的なものであって、絶対的な真実でもないし、絶対的な虚偽でもないといっているのである。分別を離れたところに、真理の特質(実相)があると中観派は主張するのである。

この章は次のような語句で結ばれる。「(もろもろの事物の本性は)同一のものでもなく、異なった別のものでもなく、断絶するのでもなく、常恒に存在するのでもない~。これが世の人々の主であるもろもろの仏陀の甘露の教えである」

真理は分別智ではないから、同一律のような形式論理はなりたたず、かといって、混沌というわけでもない。しかし同一律を軽視するのであるから、永遠の存在などといった概念は否定する。かといって、概念を全く無視するわけでもない。分別智と割り切ったうえで、それに相応しい役割りを認めてやればいいのである。


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