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中論を読むその九:自性と無自性の考察


中論第十三章「形成されたものの考察」及び第十五章「それ自体の考察」は、自性と無自性とについての考察である。自性というのは、それ自体として存在しているもので、他に原因を持たないものをいう。それに対して無自性というのは、別のものによって形成されたもので、それ自体のうちに原因をもたないものをいう。自性は、基本的には不変である。無自性には生起・存続・消滅の相がある。ここでナーガールジュナが自性と呼んでいるのは、永遠不変の概念のようなもので、したがって人間の思考の産物である。それに対して無自性は、具体的な存在物であって、たえず生成変化していると考えられている。そのように抑えたうえで、自性も無自性も成立しないと断ずるのが、この二つの章の目的である。

まず第十三章。この章の冒頭では、「<よこしまに執着(妄取)されたもの>は虚妄である、と世尊は説き給うた。そうしてすべて形成されたもの(行)は妄取法である。故にもろもろの形成されたものは虚妄である」と断言される。なにが言いたいかというと、形成されたものは虚妄である、ということだ。形成されたものというのは、因果の連鎖の中で、生起・存続・消滅するような存在のことをいう。それが虚妄だというのだから、因果の連鎖もまた虚妄であるということになる。

この章は、形成されたものの反対のものとしての<それ自体>にも言及しているが、その具体的な内容は、第十五章で展開される。

第十五章ではまず、「それ自体(自性)が縁と因とによって生ずることは可能ではないであろう」と宣言される。縁と因とによって生ずるというのは、因果関係の結果として生ずるということであり、自分以外のものに原因をもつということになり、自分自身に原因をもつとする自性の定義に反する。因縁(因果関係)より生じたものは、<作り出されたもの>であり、<所作のもの>である。

以上で説かれていることは、無自性のものは因果の連鎖に押し流されて虚妄だということであり、一方自性のものは、それ自体に原因をもち、したがって因縁とは無縁だということである。では、無自性はだめで自性はよい、といえるかどうか、それについては、両者とも成立しないというような言い方をナーガールジュナはするのである。

無自性が虚妄であることはすでに前提になっているので、自性が成立しないということがここでの議論の眼目となる。その議論はかなり苦しいものになっている、すくなくとも、論理一貫しているとは言えない。自性とは、あるもののそれ自体であると定義される。それ自体は他の者によって動かされないから、したがって変化するものではない。しかし、それ自体ばかりで他の者の存在しないということはありえない。といっても、それ自体と他の者が共存するともいえない。だいたい、そんな理屈を弄して、それ自体(自性)が成立しないと主張しているのである。

そのあたりの理屈展開は、本文では次のようになっている。「もしも本性上、或るものが有であるならば、そのものの無はありえないであろう。何となれば、本性の変化することは成立しえないからである。(物の)本性が無であるとき何物の変化することがあろうか。また本性が有なるとき何物の変化することがありえるであろうか。<有り>というのは常住に執着する偏見であり、<無し>というのは断滅に執する偏見である。故に賢者は<有りということ>と<無しということ>に執着してはならない」

要するに、自性について、それが、<有り>といっても<無し>といってもだめだというのであるが、その理由がいまひとつ薄弱に見えてしまうのである。

続く第十六章では、「繫縛と解脱との考察」と題して、もろもろの形成されたものの輪廻についてと、その輪廻の主体としてのアートマンについて説かれるのであるが、ここではその詳細については触れない。


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