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中論を読むその七:行為と行為主体との考察


中論の第七章は「行為と行為主体との考察」と題して、表向きは行為・作用とその主体との関係についての議論のように見えるが、本当の論題は、概念的な存在の空虚さをめぐる議論である。概念的な存在の空虚さをめぐる議論は、有為と無為の関係をめぐる第六章においてもなされていたが、それを別の形で言い換えたものと言ってよい。

この章は、中村訳では次のような語句で始まる。「すでに実在する行為主体は、すでに実在する行為をなさない」。これは、ストレートに受け取れば、実在する行為主体と、かれが行う行為との間には何ら関係がないというふうに読め、チンプンカンプンなことを言っているように受け取れる。これは訳し方の問題もあると思う。平川訳では、次のようになっている。「実体としての作者が実体としての行為をなすことはない」。これだと、実体を概念的なものと考えれば辻褄はあう。概念としての作者が概念としての行為をなすことはないと読めるからだ。

平川訳を踏まえれば、ここで言われているのは、抽象的な概念には、存在の裏付けはないという意味になる。つまり、この冒頭の語句が言っていることは、概念には実在性はないということである。そういう意味では、西洋哲学における唯名論の主張に近いことを言っていると捉えることができる。

そのように捉えれば、この章全体で言われていることが、矛盾なく受け入れられる。ただ、中村訳では、平川訳で「実体」と呼ばれているものを、「実在するもの」と訳しているので、理解に混乱が生じる。平川訳を踏まえれば、実体としての概念には実在性はないという意味なのに、中村訳だと、実在することがら(概念)には実在性がないというおかしなことになってしまう。

ともあれ、この章で議論されているのは、抽象的な概念相互の関係である。抽象的な概念は、個々それぞれが自性性をもって、完全に自己充足し、ほかの概念の影響を受けることとがない。したがって相依関係を本質とする縁起とは無関係ということになる。縁起とは存在の本質を捉えたものだが、それはわれわれが日常的な感覚で捉える存在の相であって、抽象的な概念とは別のものである。抽象的な概念に高められたものは、それ自体が自性であり、相依関係の網の目としての縁起とは無関係である。

有為と無為をめぐる議論においては。有為の成立を否定するその刀で、無為も否定していた。その場合の、有為と無為の関係は、この章における実体としての存在と実体でない存在の関係に対応する。有為と無為がともに否定されたように、実体としての存在と実体でない存在いづれも否定される。実体としての存在の否定は、冒頭で簡略に言明されたが、実体でない存在の否定は、やや複雑な手続きを通じてなされている。

まず平川訳では、「実体でない作者が、実体でない作業をなすとすれば、作業は原因をもたないものとなり、作者も無因性のものとなろう」とあるが、これは非常に分かりにくい。実体でない作者といえば実体である作者の反対概念というべきだから、この語句の意味は、抽象的な概念でない実在するものとしての作者は、抽象的でない(具体的な)作業をなすことはないと読めてしまう。そこで中村訳のほうを読むと、「未だ実在しない行為主体がまだ実在していない行為をなすのであれば、行為(業)は原因を有しないものとなるであろう。そうして行為主体も原因をもたぬものとなろう」。これならわかりやすい。

平川訳と中村訳では、「実体」という言葉の意味が異なっているようなのだ。平川訳ではそれを抽象的な概念と同じような意味で用い、中村訳では、実在するものという意味で用いている。平川訳によれば、実体が実在することはありえないが、中村訳だと、実在するものが実体だと読めてしまう。だから読者としては、読解に混乱をきたす理由になる。

いずれにしてもこの章は、概念としての実体を否定するとともに、具体的な縁起の関係にある存在の実在性をも否定する。前の章(有為と無為との考察)のように、すべては夢幻だと正面切って言ってはいないが、それと同じような思想が語られているわけである。


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