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中論を読むその五:貪りに汚れること貪りに汚れた人との考察


「中論」第六章「貪りに汚れることと貪りに汚れた人との考察」は、平川訳では「染める者と染められるものとの考察」となっている。だが、染める者(能染)は「貪り」と言われているので、両者の意味は同じだと考えてよい。その上でこの章を読んでみると、説かれているのは、不去不来、不一不異とほぼ同じことだと分かる。同じ理屈を、異なった例に適用することで、言葉の意味の厳格化をはかろうというのだろうが、こうした蒸し返しは、かえって事態を複雑化させているように見える。

この章での主張の眼目は、貪りに汚れることと貪りに汚れた人との間の関係である。まず、この両者はそれぞれ独立した別個の実体概念であり、その二つの実体概念が外的に結合するという見方がある。それに対して、この二つは相互依存的な概念であり、一体化していて切り離し得ないという見方がある。前者の見方によれば、貪りに汚れることよりも以前に貪りに汚れた人が、貪りに汚れることを離れて存在するということになる。後者の見方に立てば、貪りに汚れた人は貪りに汚れることを離れては存在しない、ということになる。要するに両者は別々のものと考えることも、同一のものと考えることも、どちらも不都合を含んでいるということになる。中論特有のロジックがここでも繰り返されているわけである。

貪りに汚れることと貪りに汚れた人とのこれら両者が別個のものと考えることに伴なう不都合は次のように言及される。貪りに汚れることと貪りに汚れた人とが同一時に生起することはありえない。何故なら、それら両者は無関係なものとなるだろうから。相互に無関係なものが関係しあうことはない。ところが、貪りに汚れることと貪りに汚れた人とは密接な関係がある。

一方、貪りに汚れることと貪りに汚れた人とが同一であるならば、両者の共在することはありえない。何故なら、ものはそのもの自体とは共在しないからである。

こういった理屈を通じて、次のような結論が導き出される。「こういうわけであるから、<貪りに汚れること>と<貪りに汚れている人>とともに成立することはないし、また両者がともにならないで(別々に)成立することもない。<貪りに汚れること>と同様に、一切のことがらがともに成立することもないし、またともにならないで(別々に)成立することもない」

こうした理屈は、不生不滅の理屈と共通するものであるが、西洋流の形式論理の考えからすれば、異様に見える。不生不滅の場合には、すくなくとも字句の上では、排中律の関係にはなっていないので、一見無理のない判断のように聞こえるが、この章での議論は、排中律に露骨に抵触している。排中律によれば、AとBとの関係は、Aと非Aとの関係に還元される。Aでありつつ非Aでもあることは、論理的にあり得ない。ところがここでは、同一をA、別個を非Aとしながら、この両者がいづれも成立しないと言っている。いずれも成立するという言い方よりは穏やかではあるが、排中律に反することに違いはない。中論における判断原則はだから、西洋的な形式論理とは根本的に違った原理の上に立っているように見える。

その原理を鈴木大拙は「即非の論理」と言った。これはAであり、かつ非Aであるからこそ、Aは成り立つと言いかえられるのであるが、そうした言い換えは形式論理とは全く違った世界での論理のように聞こえる。


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