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中論を読むその四:六根、五蘊、界の考察


「中論」の第三章は「認識能力の考察」と題して、六根について考察している。六根とは、見るはたらき、聞くはたらき、嗅ぐはたらき、味わうはたらき、触れるはたらき、思考するはたらきの、六つの認識能力を言う。それらの認識能力が存在しないというのが、この章の眼目である。

なぜ、認識能力が存在しないのか。この章はそれについて、見るはたらきを例にして説明している。それを簡単に言うと、見るはたらきは見ない、ということになる。この理屈は、去るはたらきは去らない、とする第二章の論証と同じ論法をとっていることがわかる。第二章では、去るということには自性がないから、したがって去る主体は存在せず、存在しないものが去るはずがないという理屈に立っていたが、ほぼそれと同じ理屈がここでも採用されている。じっさいこの章では、その理屈が実証済みであるという前提に立って、見るはたらきは存在しないと結論付けているのである。

見るはたらきが存在しないのであるから、見る主体も存在しない。見る主体が存在しないから、見られるものも見るはたらきも存在しない。ちょっとした循環論法のようにも聞こえるが、このロジックがナーガールジュナの基本的な論法になっているのである。

六根のほかのもの、聞くはたらき、嗅ぐはたらき、味わうはたらき、触れるはたらき、思考するはたらきについても同じことが言える。聞く主体、聞かれるべき対象等もまた存在しない。

第四章は、「集合体(蘊)の考察」と題して、いわゆる五蘊について考察している。五蘊とは、色、受、想、行、識を言い、物質界と精神界を通じてのあらゆる存在者を意味するが、この章では、とりあえず、物質的要素の集合体というふうにイメージされている。その上で、物質的要素は原因を持っておらず、原因を持たない物質的要素は存在しないというふうに説かれる。これもまたきわめて詭弁的に聞こえるが、その主張の本意は、客観的な個別存在としての物質に原因がないことではなく、概念としての物質的要素は自性を持つといわれるから、そのような意味での物質には原因がないということを言いたいことにある。要するに概念は抽象であって実在するものではないということを主張しているわけである。

こうした論法を、この章では「空であること(空性)」によって論破すると言っており、そのような論破は決して反駁されないと言う。

第五章は、「要素(界)の考察」と題して、界について考察している。普通「界」といえば、仏教では、地獄界から仏までの十界をいうのであるが、この章では、あらゆる存在者を容れる容器としての虚空をさしている。アリストテレスの真空のようなものとしてイメージしてよいだろう。

この章の主張の眼目は、虚空は有(もの)でもなく非有(無)でもなく、特質づけられるものでもなく、また特質でもないというものである。有(もの)と特質とを持ちだすのは、特質のない物質は存在しないからである。ところが特質なるものは存在しない。特質が存在しないから、特質づけられるもの即ち有(もの)も存在しないということになる。

この主張は、「<特質>(相)が成立しないから<特質づけられるもの>(可相)はありえない。<特質づけられるもの>が成立しないから特質もまた成立しない」と表現されているが、これは循環論法ではないか。ところがナーガールジュナは中論のいたるところで、この論法を駆使しているのである。循環論法の非以外にも、この主張には特異なところがある。この主張を簡単に言い表せば、「Aが成立しないならBも成立しない」ということになるが、この主張が当てはまるのは、AとBとが、互いに相手を前提としあっている場合のみである。

ともあれ、以上三章で展開された主張は、物質界は、抽象的な概念としては存在を主張できない、ということである。概念は思考の抽象による創作物であって、それ自体は存在しない、つまり自性をもたないというのが、以上三章に共通する根本思想である。


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