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勝鬘経を読むその二:一乗と無名住地


「勝鬘経」の「一乗章」は、三乗をすべて含んだ仏乗としての一乗の意義について説き、また、真実の教えとしての正法とは、無名住地を正しく理解し、それを克服することだと説く。「無名住地」とは全ての煩悩の根源にある煩悩であって、涅槃の境地に達してはじめて超脱できる。声聞や独悟が目指す地では、せいぜい派生的な煩悩が除かれるだけで、根源的な煩悩である「無名住地は」克服できない。大乗の教えたる正法を接受することではじめて「無名住地」が克服できる。

まず、一乗の意義について。仏法の修行の道には、声聞の道、独覚の道、大乗の道の三つがある。このうち正法というべきは大乗の道だけであって、ほかの二つは方便に過ぎない。であるから、大乗の存続こそは正法の存続と言われるのである。その正法としての大乗を仏乗という。仏乗とは仏を目標とする道と言い換えられるが、仏をめざすという意味では、声聞も独覚も同様である。その声聞と独覚と大乗の三つをあわせて三乗というが、そのなかで本質的に重要なのは大乗である。三乗の教えのすべては、仏乗という一つの道に帰着する。その道を一乗というのである。

このように、声聞、独覚との比較において大乗の優位性を比較し、大乗こそが仏乗そのものだと主張するところは、「維摩経」によって説かれた思想を踏まえている。大乗優位の思想は「法華経」にも見られるので、歴史的な順序としては、「維摩経」が大乗優位の思想を前面に押し出し、「法華経」がそれを発展させ、「勝鬘経」が完成させたといえるのではないか。

仏教の最終的な目標は、輪廻を超脱して涅槃の境地に入ることであるが、それにはまず、輪廻の原因が煩悩であることを理解し、その煩悩から脱却することを目指さねばならない。釈迦が初転法輪の中で述べた四諦の説はそれと全く同じことを説いていた。四諦とは苦集滅道をさしていうが、苦とは生きることは苦であるという思念であり、集とは苦の原因は煩悩であるという思念であり、滅とは煩悩を脱却することで安らぎがもたされるとする思念であり、道とはそれを実現するための修行の内容のことである。

「無名住地」は、輪廻の中で生きることに伴う煩悩について詳細に説いたものである。

まず、煩悩には二種類あるという。一つは、「住地の煩悩」といって、根源的で潜在的な煩悩であり、もう一つは、「纏の煩悩」といって、「住地の煩悩」が顕在化つまり発現した状態である。「住地の煩悩」には四種類あって、それぞれに対応して顕在的な煩悩が発言する。その四種類とは、①一方的偏見の中に存在する「住地の煩悩」、②凡夫の世界たる欲望界特有の執着中に存在する「住地の煩悩」、③肉体を有するものの世界特有の執着中に存在する「住地の煩悩」、④輪廻する生存に通有の執着中に存在するところの「住地の煩悩」すなわち「有愛住地」である。

これらの煩悩の更に根源にあるのが「無名住地」と呼ばれるものである。潜在的な住地の煩悩が発現した顕在的な煩悩は、基本的には一時的なものである。ところが「無名住地」は時間にとらわれないで存在し続ける。それは「時間そのもののはじめから存在するもので、心の働きと対応して生滅するもの」ではない。

この「無名住地」は、四種の「住地の煩悩」の根源にあって、それらを引きおこすもとになるもので、全く次元を異にしたものである。四種の煩悩は、心の働きに応じて生滅するものであるが、「住地の煩悩」は輪廻の続く限り存在し続ける。時間とは輪廻という形をとるものであり、その時間が存在する限り「無名住地」も存在し続けるからである。

その「無名住地」を超脱できるのは、さとりを経て涅槃の境地に入ることによってである。涅槃とは輪廻から超脱することであって、したがって時間からも超脱することを意味する。時間から超脱してはじめて、「無名住地」から脱却できるのである。声聞や独覚がめざす阿羅漢は、決してこの「無名住地」からの脱却ができない。阿羅漢は、大乗的な意味での悟りの境地には達しておらず、したがって輪廻に捕らわれたままだからである。

ここで死についての認識をめぐる大乗と声聞・独覚との相違について述べられる。死には「分断死」と「不思議な変易死」の二種類がある。「分断死」は、輪廻に縛られているものたち一般の現象、つめり一つの生の切れ目をいう。それに対して「不思議な変易死」は、輪廻そのものから超脱することをいう。阿羅漢に生じるのは「分断死」であって「不思議な変易死」ではない。阿羅漢は一つの生を終えてなお、輪廻に捕らわれたままである。

かようなわけで、釈迦が初転法輪の中で述べた四諦の教えは、煩悩の本質的な根源が「無明住地」であることを理解することで、まったき正しさを帯びることが出来る。「無明住地」こそが、煩悩の根源であり、それを脱却するためには、「無常・完全なさとり」を獲得する以外に道はない。その「無常・完全なさとり」とは「涅槃の世界」の別名であり、「涅槃の世界」とは「如来の法身」と同義である・

このように「勝鬘経」は、三乗を集約する一乗の教えを説きながら、その教えの核心を「無名住地」からの脱却と、それによる輪廻からの超脱だと説くわけである。そんなわけで、大乗仏教者の修行の具体的な方法論に踏み込んだ議論を展開したものといえるのではないか。



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