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撰時抄:日蓮を読む


「撰時抄」は佐渡流罪を許され、鎌倉を経て身延山に入ったすぐ後に書かれた。日蓮が身延山に入った動機はさまざまに推測されているが、一番有力なのは、蒙古襲来を恐れたからだという説だ。仮に蒙古が攻めて来ても、身延山までは押し寄せてこないだろうと考えたというのである。

その蒙古の第一回の襲来、文永の役は文永十一年(1274)秋のことだ。日蓮が佐渡から解放されたのはその年の三月。四月には北条政権の要人と会談し、蒙古問題について諮問された。日蓮は他宗を退けて法華経のみに帰依することを要求したため、会談は決裂。失意の日蓮は北条幕府を見限って身延に避難した。日蓮が身延山に入って間もなく、蒙古の艦隊が九州に攻め寄せてきた。文永の役である。

「撰時抄」は、文永の役の翌年に書かれている。だから全編、蒙古への並々ならぬ強い意識に支えられている。日蓮は蒙古襲来を、法華経が予想した末法の大災厄の到来ととらえた。法華経は、末法の時にこそ、法華経流布の意義が決定的に高まると予言したのだったが、日蓮は、いまこそその時期だと判断してこの書を書いたのである。「撰時抄」という題名は、そうした危機意識を反映した言葉である。法華経を流布するに時期を選ぶ、いまこそその時期である、という意味を込めた言葉である。

こういうわけであるから、この書はかなりプロパガンダ性が高い書である。蒙古が攻めてきたのは、北条幕府が日蓮の言葉に従わず、法華経を軽んじたためである。日本国が蒙古の脅威から逃れるためには、国全体を挙げて法華経に帰依しなかればならない。でなければ、蒙古は再び日本を襲うに違いない、そういった危機意識が強く伝わってくる書き方になっている。

日蓮の法華経へ帰依する心は、年齢を経るにしたがっていや増しに深まってきていた。法華教の行者としての自覚を持って出発した日蓮は、やがて上行菩薩の自覚を持つようになり、ついには日本国全体の導師としての自覚を持つにいたった。いまや日蓮は、「閻浮第一の者」であり、「日本国の棟梁」である。「その日蓮を失うは日本国の柱を倒すなり」。その日蓮が声をからして法華経を説くのであるから、日本国の衆生はその声を聴くべきである。むつかしいことを言っているわけではない、日蓮はただ「南無妙法蓮華経」の七文字を称名することを勧めるばかりである。この七文字を称名することで、法華経に帰依しているとみなされるのだ。

日蓮はまた、「当世日本国の智人等は衆星の如し、日蓮は満月の如し」ともいって、日蓮こそが法華経のいう菩薩として、日本国の衆生をことごとく救済するのだと言っているのだが、その法華経の教えの具体的な内容は、ここではほとんど触れられていない。日蓮は、宗教仲間を相手にするときには、法華経が他経にすぐれている所以をことこまかく説明するが、一般の衆生を相手にするときは、「南無妙法蓮華経」の題目を唱えるよう勧めることに専念している。そこはおそらく、「南無阿弥陀仏」の六字の名号で衆生の心を勝ち取った念仏のやり方にならったのだと思う。

「ならう」という言葉のついでにいえば、この書は、「夫仏法を学せん法は必ず先ず時をならうべし」で始まっているが、この「ならう」は「えらぶ」と同義である。時が熟さなければ学しても意義がないということだが、いまこそその時なのだから、これを逃してはならぬ、という意味合いもある。

日蓮のこうした時間意識は、やはり仏教の根本的な末法思想に基づくのであろう。末法思想は念仏も共有していた。法然が念仏を唱えたのは源平の争乱の時期であり、まさに末法的な雰囲気が日本を覆っていたわけで、そういう時代には、現世の否定と来世の理想化が衆生の心に受けた。日蓮の時代は、源平の争乱期ほどではないにしても、度重なる天変地異に内乱も重なり、世の中は騒擾をきわめていた。そこに蒙古による外患が加わったわけだから、法然に劣らず末法意識を強めたのは無理もないといえる。この書にはそうした末法意識が至ることろにあらわれている。

そうした末法意識が強く働いていたからこそ、日蓮の危機意識は異常に高まったのだと思う。その危機意識は、日蓮に日本の救世主としての自覚を持たせるまでにいたった。その自覚を一連は次のように表現する。「法華経を広むる者は日本の一切衆生の父母なり・・・日蓮は当帝の父母、念仏者・禅衆、真言師が師範なり、又主君なり」

こうした、大袈裟ともとれる自己意識が宗教家としての日蓮の最大の特徴なのであるが、それは一部の人々にとっては頼もしさと映る一方、ほかの人々にとってはうさん臭い押し出しと映るようである。日蓮ほど、評価が極端にわかれる宗教家はいない。



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