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観心本尊抄:日蓮を読む


「観心本尊抄」は、正式には「如来滅後五五百歳始観心本尊抄」という。釈尊の滅後二千五百年目にしてはじめて、「観心本尊」について日蓮が説くのだという気負いの言葉である。二千五百年というのは大雑把な言い方で、正確には釈迦の滅後二千二百五十年である。それは末法の時代にあたる。仏教では、釈迦の滅後千年を正法の時代、続く千年を像法の時代、その後の五百年を末法の時代とする。だから釈迦滅後二千二百五十年目は末法の時代に属する。その末法の時代に日蓮という菩薩が現れて「 観心本尊」を説くというのが、この書の眼目である。

この書は、佐渡流罪後しばらく経った時点で、一谷で書かれた。「開目抄」とともに、日蓮の最も重要な著作とされる。日蓮の思想が圧縮された形で展開されている。日蓮は法華経に依拠しながら、自分の思想を説くわけだが、それを単純化していうと、二乗作仏、久遠実成、一念三千に集約される。この三つのキー概念のうち、「開目抄」では、二乗作仏と久遠実成を詳細に論じていたが、この書では、一念三千の思想が強調されて説かれる。一念三千は、二乗作仏の根拠ともなり、大乗仏教の根幹的な概念である。

一念三千は、文字通りには、一念のうちに過去、現在、未来にわたるすべての世界のありようを一挙に把握するというものである。それゆえ認識論的かつ存在論的なニュアンスを持つ。認識論的というのは、世界の考察を人間の認識と相関させて論じることをいい、存在論的というのは、世界は人間の心の産物だとする唯心論的な主張をさす。この唯心論的な主張は、やがて「華厳経」をへて、唯識説の成立に結びついていく。大乗仏教の思想的な内容は、唯識説が体系的に展開したといえるので、法華経はその唯識説の端緒を与えたというふうに位置付けることができる。

日蓮は、法華経のほうが華厳経よりあとに成立したと考えているので、華厳経の唯識的な要素が法華経によって深められたというふうに考える。日蓮にとって法華経は、あらゆる大乗仏典を集大成したものであり、したがって大乗仏教の持つすべての要素が盛り込まれていると考えている。その中で、二乗作仏、久遠実成とならんで、一念三千の概念を、もっとも重要なものと位置付けていた。この書は、その一念三千の意義について明らかにし、全世界を一念で把握することによって、涅槃に達することができると説くのである。

まず、一念三千の文字通りの意味について。この書では、日蓮は一念三千の意味を周知のものとして前提し、意味内容について詳しく触れていないのだが、重要なことなので、確認しておきたい。一念三千の基礎に、十界互具の概念がある。これは世界の構成についての説である。世界は人間の心の産物であるが、その心の生み出す対象は十界に分かれる。十界とは、五蘊を含めた六道に、声聞、縁覚、菩薩、仏を加えたものである。この十界それぞれが自分のうちにほかの九界を含んでいるから、それを合計すると百界となる。その百界それぞれがうちに十如是(相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟等)を含んでいるから、それを合計すると千になる。その千のそれぞれが過去、現在、未来に分かれるから、世界全体は三千の界によって構成される。その三千世界を一念にして把握することを一念三千というわけである。

この概念がなぜ重要かというと、それによって仏性が実現されるからである。というのも、十界のうちには仏性が含まれているから、それが十界互具の働きを通じて、一念三千において把握されると、仏性が実現されることになるからである。つまり、一念三千の概念には、人間は生まれながらにして仏性が備わっているという主張が込められていいるのである。そうであるからこそ、二乗作仏ということも可能になる。小乗や(般若経など)大部分の大乗経典は、人間に生まれながらの仏性を認めていない。仏性は、人間の外部からもたらされると考える。ところが法華経は、人間にはそもそも仏性が備わっているのだから、一定の修行さえ怠らなければ、成仏できると考えるのである。日蓮も無論そのように考える。

そんなわけで、一念三千の概念は、法華経独特の悉皆成仏の思想を根拠づけるものである。天台には、国土草木悉皆成仏の思想があるが、それは十界互具の思想によって根拠づけられている。日蓮は、天台のように草木まで成仏できると強調するわけではないが、十界互具を前提にすれば、そういうことになるはずである。

題名の「観心本尊」について、もう一度言うと、心に本尊を見るという意味である、本尊とは真の仏性ということだ。その真の仏性を心に見るというのが、この「観心本尊」という言葉の意味なのである。この言葉の意味を詳細に解き明かすために、この書は問答体の形式をとっている。おそらく弟子と思われるものが問いかけ、それに日蓮が答えるという形で展開していく。この問答の中で日蓮は、「観心とは、我が己心を観じて十法界を見る、これを観心と云ふなり」と言っているが、これは単に、心を通じて対象世界を見ると意味ではなく、対象世界は心の産物だという意味合いなのだ。そこに日蓮の唯心論的傾向を見て取ることができる。

さて日蓮は、かれの同時代を末法の世と捉え、その末法の世にはじめて「 観心本尊」を説くものが現れると言う。それは法華経にいう四大菩薩のことである。四大菩薩とは、上行、安立行、浄行、無辺行の諸菩薩をいうが、このうち上行菩薩に日蓮は自分を同化させている。その自分を含めた諸菩薩が、末法の世に現れて衆生を救わんとする、というわけである。そのあたりの気合を日蓮は次のように表現している。

「これを以てこれを惟ふに、正・像になき大地震・大彗星等出来す。これらは、金翅鳥・修羅・竜神等の動変にあらず。偏へに四大菩薩の出現せしむべき先兆なるか・・・一念三千を識らざる者には、仏大慈悲を起し、五字の内にこの珠を裹み、末代幼稚の頚に懸けしめたまふ。四大菩薩のこの人を守護したまはんこと、太公・周公の成王を摂扶し、四皓が恵帝に侍奉せしに異ならざるなり」。日蓮はすっかり、末法に現れた菩薩に自分のイメージを重ねているのである。大事なのは、日蓮が衆生を相手に、五字つまり妙法蓮華経のありがたさを説き、その名号を唱えることによって、成仏できると説いた点である。



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