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華厳経を読むその七:十の回向


第五会「兜率天宮会」は、説法の場が兜率天にかわる。兜率天は夜摩天よりさらにはるか上空にある。そこに如来が赴くと、兜率天王が獅子座をあつらえてお迎えし、大勢の天子とともに如来を供養した。また、無数の世界から無数の菩薩たちが集まってきて、如来をほめたたえた。その中には、金剛幢菩薩、堅固幢菩薩、夜光幢菩薩、離垢幢菩薩がいた。古来兜率天の内院にいるとされる弥勒菩薩は登場しない。

第五会の中核は第二十一章「十回向品」である。これは十種の回向について説いたものである。回向とは、さしむけるという意味であるが、具体的には、さとりの結果得られた功徳を他のものに分け与えるというような意味である。さしむける相手としては、衆生があり、仏があり、またさとりの境地そのものがある。衆生に回向するというのはわかりやすい。これは功徳を一般の衆生とわかちあうということだからである。仏に回向するというのは、おそらくさとりを得たことについて、仏に感謝するということだろう。また、さとりの境地そのものに回向するというのは、悟りを得た感謝の念を改めて表明するということか。

ここで回向について説法するのは 金剛幢菩薩である。金剛幢菩薩は、毘盧遮那仏の本願力を得て、無量の仏法及び十種の回向について説く。十種の回向とは、第一に一切の衆生を救いまもり、衆生の姿を離れた回向、第二にこわれることのない回向、第三に一切の諸仏に等しい回向、第四に一切の場所に至る回向、第五に尽きることのない功徳の蔵の回向、第六に平等にしたがう功徳の回向、第七に等しく一切の衆生を観察する回向、第八に如相の回向、第九に束縛も執着もない回向、第十に法界無量の回向である。

第一の一切の衆生を救いまもり、衆生の姿を離れた回向とは、「一切の衆生を救いまもるために、もろもろの善を回向する」ことである。具体的には、地獄、餓鬼、畜生の三悪道のなかにおいて、衆生の代わりに苦を受け、衆生をして解脱を得しめること。そのように回向して執着するところがない。衆生や世界の姿にも執着せず、ことばにも執着しないことである。要するに衆生の解脱のために、すべてを投げうつということである。

第二のこわれることのない回向とは、「こわれることのない信に安住し、仏やボサツや一切衆生などの、測り知れない多くの世界において、もろもろの善を実践し、ボダイ心をやしない、慈悲心をそだて、諸仏にしたがってすべての清浄な善をおさめとり、過去、未来、現在三世を、ひとしく観察」することである。そのようにもろもろの善を回向して、一切の智慧を成就することである。

第三の一切の諸仏に等しい回向とは、過去、未来、現在の諸仏の回向を学び、それによって一切の衆生をして、ことごとく無上のさとりを開こうとする心をおこさせ、その心を養いそだて、ただひたすらに一切の智慧を求めさせることである。

第四の一切の場所に至る回向とは、「ものの実相は、世間の上にも、衆生の上にも、過去、未来、現在の上にも、至らないところはないように、善の力もまたすべての場所に至り、あまねく一切の諸仏のみもとに至り、諸仏を供養しよう」とつとめることである。

第五の尽きることのない功徳の蔵の回向とは、「三世諸仏の尽きることのない善、すべてのボサツが修行するところの善、三世の諸仏がさとりを完成するときの無上の善、そのようなすべての善をことごとく回向する」ことである。それによってボサツは、自身が尽きることのない善の力を得るのである。

第六の平等にしたがう功徳の回向とは、「衆生が求めてくるものに対しては、貧賤と富貴を問わず、すべてを施して少しも惜しむことろがない」ことである。ボサツが施すときには、「一切の衆生をして甘露を飲ましめ、ボサツの道を完成せしめ愛欲を除いて、つねに大乗をねがわしめよう。三昧によってこころをととのえ、智慧の海に入って、大法の雲をおこし、大法の甘露をふらせよう」とする。食事を施すときにも、住居を施すときにも、燈明を施すときにも、くすりを施すときにも、もろもろの宝の蔵を開いて施すときにも、牢獄の人々を救うときにも、囚人の苦難を救うときにも、己の身を捨てて衆生を救い、さとりを得しむるように回向する。ボサツがそのように回向するとき、ボサツはなにものにも執着せず、いなかるものにも束縛されない。なぜなら、「すべての存在は生ずることもなく、滅することもなく、みずからの実体もなく、善もなく、悪もなく、静けさもなく、乱れもなく、一もなく、二もない」ことを知っているからである。

第七の等しく一切の衆生に随順する回向とは、「未来際を尽くしてボサツ行をおさめ、もろもろの善を残りなく一切衆生に回向する」ことである。

第八の如相の回向とは、「もろもろの善を回向して、衆生に執着せず、国土に執着せず、心に執着せず、寂然としずまって、少しも乱れず、如来の道に随順して、あまねく世界を照らす」ことである。

第九の束縛も執着もない回向とは、束縛も執着もない解脱の心をもって、もろもろの善を回向し、普賢菩薩のような身のふるまい、口の弁説、心のはたらきをそなえる」ことである。

第十の法界無量の回向とは、「無量無辺のすべての仏を見たてまつり、無量無辺のすべての衆生を教えみちびき、無量無辺のすべての仏国土をきよめ、無量無辺のボサツのすべての智慧を得、無量無辺のもろもろの善を身に着ける」ことである。

以上十種の回向について 金剛幢菩薩が説き終わったとき、「測り知れないもろもろの神々は、つつしみ、うやまい、礼拝し、歓喜して仏を念じ、たえなる音楽をかなでて、仏を供養したてまつり、広大無辺の光明を放って、すべての仏国土をてらし、無量の仏の化身を現わし出した・・・そのとき金剛幢菩薩は、仏の神通力を受けて、十方世界のもろもろのことがらを観察し、その心は、三世一切の諸仏の境地に安住し、一切衆生の希望をことごとく認知し、法身にしたがってボサツ身を現わした」



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