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華厳経を読むその二:普光法堂会


第二会は同じ地上で行われるが、場所を寂滅道場から普光法堂に移す。そこで廬舎那仏に代わって文殊菩薩が説法をする。説法の内容は仏のさとりについてである。それとともに、そのさとりを得るためのボサツの心得が説かれる。

第三章「如来名号品」は、仏には無数の名号があることが説かれる。世界は、自分たちが生きているこの世のほかに、無数の世界に分かれている(それらをあわせて十方世界という)。それぞれに一万づつの如来の名がある。名があるということは、そういう名の仏がいるということである。かくして十方世界には無数無辺の仏がいると確認される。これはどういうことかというと、釈迦はそれら無数の仏の一人にすぎず、仏以外に無数の仏が、時間空間を超越する形で、存在しているということである。それらの無数の仏を仏の応身といい、すべての仏の本体を法身というのである。

第四章「四諦品」は、釈迦のさとりの内容「四諦」について説かれる。これは初転法輪といって、小乗仏教も含め、すべての仏教流派が、仏のさとりの内容として説いているものである。

第五章「如来光明覚品」は、仏がこの世に生まれてきたのは、大悲心によって衆生を救うためであること、及びその仏になるためにボサツがつとめるべきことが説かれる。「仏がはじめてこの世にお生まれになったとき、そのお姿は、金山のようにうるわしく、満月のように照り輝いておられた。お生まれになると、すぐ七歩すすまれたが、その一歩一歩に、無量の功徳をおさめ、智慧と禅定をそなえておられた・・・また、獅子のほえるような威厳のあるみこえで、『天上天下、ただわれ一人尊し』とのたもうた・・・最後にはこの世の縁がつきて、涅槃に入られたが、しかし仏は、いまもなお無尽の力によって、自由自在の真理をあらわしたもうている」

ついで、ボサツのつとめについて説かれる。第一に大悲心を行じ、すべての衆生を救い守ること。第二にひたすら仏を信じること。第三に生死の海をはなれ、仏法の流れにしたがうこと。第四に日常仏の深い功徳を念じ、昼夜怠らぬこと。第五に怠慢の心をおこさずに、常に仏の功徳を求めること。第六に我や無我にたいする執着をはなれること。第七に迷いの思いをはなれ、真実の境界を完成すること。第八に無辺の世界に思いをはせ、神通の智慧を完成すること。第九に諸仏の国土の形あるものと形ないもののすべてを知ること。第十にはかり知れない仏国土の、一つのちりを一仏となし、かくしてすべてのちりを諸仏となすこと。

「如来光明覚品」の後半では、大悲の境界について説かれ、続く章で仏への信仰の内実が「十種の甚深」として説かれる。以後さらに、ボサツの修行の心得について説かれる。

大悲とは衆生へのあわれみの心であり、自分をなげうってでも衆生を救おうとする決意である。「まよいをはなれきった仏は、衆生の苦悩をことごとく断ち切り、世界の超脱者となって・・・衆生を寂滅の世界へ入らしめようとおぼしめし、最高のみのりをのべたまう」と説かれる。

第六章「菩薩明難品」で、「十種の甚深」が説かれる。これは文殊菩薩がさまざまな菩薩との問答を通じて説かれるという形をとっている。第一は世界のありのままの姿について。これは、「心の本性は一つであるのに、どういうわけで、この世にはいろいろな差別が生じているのか」という文殊菩薩の問いかけに覚首菩薩が答える。この問いへの答えは次のようにそっけないものである。「すべてのものは、自性を持たない。それがなんであるか、ということをたずねても、体得することができない・・・だから虚妄といい、虚妄でないといい、真実でないということなどは仮のことにすぎない」。これは般若経の空の思想を言い換えたものだが、このようにはぐらかすような言い方をするのは、般若経以来の大乗経典の大きな特徴である。

第二は因縁について。「因縁によって起るところの業は、たとえていえば夢のようなもので、したがってその結果もすべて寂滅している・・・生滅流転の一切の世界は、ことごとく因縁から起っており、刹那刹那に生滅している」

第三は自我を含め、実体というものはないということ。すべては「業にしたがって果報を受けているのであって、その行うものの実体は存在しない」

第四は真理について。仏のさとる真理は一つであるのに、それでもってさまざまの事柄を差別するのは、「たとえば、大地の本性は一つであって、それぞれの衆生を安住させていても、大地自身はなんの分別もしないように、諸仏の法もまた、それと同じである」。これは疑問についての答えを比喩で以てするものであり、やはり大乗経典によく見られる論法である。

第五は如来の福電は一つであるのに、衆生の受ける果報が多くあること。これについても、「おなじ水であっても、器によって形が違うように、諸仏の福電も、衆生によって異なっている」という具合に、比喩を以て答えている。

第六は、仏の教えは一つであるのに、衆生によって異なって受け取られる理由について。これには、衆生の能力に相違があるからだと至極常識的な答えが返される。

第七は、仏法を聞きながら煩悩を断ずるものがいるのはどういうわけか。それについては、仏法を聞くだけでは体得することはできない、という答えが返る。そういうと、厳しい修行が必要だというふうに聞こえるが、華厳経は法華経とはことなり、衆生に厳しい修行を求めているわけではない。

第八は、仏法の中では智慧第一のはずなのに、六波羅蜜や四無量心が重んじられるわけ。これについては、衆生の能力にしたがって教えるための方便だと答えられる。

第九は、成仏は一乗によってもたらされるが、そのほかの教え(三乗)が重んじられるわけ。これも衆生の能力による方便だと答えられる。いずれにしても一乗すなわち大乗の優位は前提となっている。

第十は仏の境界について。仏の境界とはさとりの境地といった意味である。これについては、「仏の境界は、業でもなく、煩悩でもなく、寂滅していて、よりどころももたないが、しかし、平等に衆生の世界に活動している」と答えられる。この答えは意味深長である。なぜなら、仏の境界すなわち涅槃は、この世以外のところにはないと言っているからである。



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