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十地経を読むその十二:終章この経の委嘱


十地経の終章「この経の委嘱」は、第一地から第十地まで菩薩のさとりの深まりゆくさまを要約的に復習したあとに、このお経を諸々の菩薩たちに委嘱することが、金剛蔵菩薩によって宣言される。お経の委嘱ということは、法華経でも大きなテーマとして取り上げられている。法華経は、釈迦の教えを述べたものであるが、その釈迦が歴史的な存在としては消滅した後でも、その教えは永遠に伝えられるべきだという考えから、釈迦の教えを、釈迦に代わって説くように菩薩たちが託されることを委嘱といった。十地経もその考えを取り入れて、金剛蔵菩薩を通じて示された毘盧遮那仏の教えの内容を永遠に伝えるよう委嘱されるのである。

委嘱について詳しく触れる前に、第一地から第十地までの菩薩のさとりの内容を復習しておこう。まず、いままで説いてきた十の菩薩の地は、あくまでも要約的に説明したもので、広範に説明するのであれば、無限の劫にわたって説明するとしても究極に達しないであろうという。その上で、「このような十の菩薩の地は、すべてのあり方のすべてを知る知者の知へと順次に完成していく」といわれる。その知は、仏知と呼ばれる。十の菩薩の地は、仏知をなんらかの形であらわしている。

そこで、菩薩の各地が、どのように仏知をあらわしているのか、比喩的に説明される。一例として以下の説明をあげる。
(1)「歓喜にあふれる」菩薩の地にあるとき、かの菩薩は、あらゆる世間的な文学や哲学や呪文や学芸の宝庫であって、どれほど多く、あらゆる世間的な文学や哲学や呪文や学芸を実際に用いようとも、無際限である。
(2)「垢れを離れた」菩薩の地にあるとき、かの菩薩は、あらゆる菩薩にふさわしい戒律と禁戒の修行の宝庫であって、どれほど多く、あらゆる菩薩にふさわしい戒律と禁戒の修行の香を体得しようとも、無際限である。
(3)「光明であかるい」菩薩の地にあるときに、かの菩薩は、あらゆる世間的な禅定、神通、三昧、定の宝庫であって、どれほど多く、あらゆる世間的な禅定、神通、三昧、定について問答しようとも、無際限である。
(4)「光明に輝く」菩薩の地にあるときに、かの菩薩は、あらゆる道であるものとその他の道でないものについて理解し、説明するすぐれた知の宝庫であって、どれほど多く、あらゆる道であるものとその他の道でないものについて理解し、説明するすぐれた知によって問答しようとも、無際限である。
(5)「ほんとうに勝利しがたい」菩薩の地にあるときに、かの菩薩は、あらゆる神通と神通力と変現と神変の宝庫であって、どれほど多く、あらゆる神通と神通力と変現と神変について問答しようとも、無際限である。
(6)「真理の知が現前する」菩薩の地にあるときに、かの菩薩は、さまざまに条件づけられてまよいの存在からまよいの存在へと生成しゆく真実について理解し、説明することの宝庫であって、どれほど多く、教えを聞いてさとる仏弟子がすぐれた果を体得することについて問答しようとも、無際限である。
(7)「はるか遠くにいたる」菩薩の地にあるときに、かの菩薩は、たくみな方便と般若の知恵によって説明することの宝庫であって、どれほど多く、ひとりでさとる仏弟子がすぐれた果を体得することについて問答しようとも、無際限である。
(8)「まったく不動なる」菩薩の地にあるときに、かの菩薩は、あらゆる菩薩の自由自在を不思議に実現することの宝庫であって、どれほど多く、種々さまざまに分類される世界について問答しようとも、無際限である。
(9)「いつどこにおいても正しい知恵のある」菩薩の地にあるときに、かの菩薩は、あらゆる衆生の生成しては滅亡することについて知によってかりそめに説くことの宝庫であって、どれほど多く、あらゆる衆生の生成と壊滅について問答しようとも無際限である。
(10)「かぎりない法の雲のような」菩薩の地にあるときに、かの菩薩は、如来の不思議な知力とゆるぎない説法力とたぐいない仏徳の宝庫であって、どれほど多く、仏が不思議なるはたらきをあらわし示すことについて問答しようとも、無際限である。

以下、菩薩の十の地のもつ意義について、さまざまな例を持ちだしながら詳細な説明がつづく。しかしてそのあとに、「すべてを知る知者になろうと発心することこそ、よいかな」という金剛蔵菩薩の言葉が語られ、ついで、その発心の重要性を強調する言葉が、頌の形で紹介される。鈴木大拙は、「華厳の研究」の最後を、それら頌の引用で飾っている。大拙は、華厳経の意義は、さとりに向けて発心することの決定的な重要性を繰り返し強調したことにあると考え、その考えに基づいて、十地経の最後に置かれた一群の頌をことのほか重視したのである。頌は全部で四十四あり、そのうち第一から第十四までを大拙は引用しているが、ここでは、別の基準からいくか引用する。

「歓喜してよき心に満ち、布施の行いをよろこび、あらゆる衆生にあますところなく恵みをもたらそうと常に努力し、仏のかぎりない徳をよろこび、衆生をやさしく見守って禁欲を守るひとびとにおいてこそ、三種の世界の衆生に恵みをもたらすための仏のはたらきにむかう菩提を求める心が生まれるのである」

「尊い仏そのひとになろうとして誓願して、まことなる神通力を得るがよい。三種のまよいの属性からあますところなく清浄になって、菩提を求める心を得るがよい。かくして、三宝に帰依する帰依をあますところなく清浄にして、菩薩たるひとであるがよい」

「この徳の不思議力をうけて、十の菩薩の地を円満に成就した自在王であり、あらゆる種類の徳の無尽蔵の宝庫であり、すべてを知る知者である仏が、あらゆる存在のあるがままの如性のうちより生まれるであろう」

「このことを聴聞し、あますところなく知って、菩提を成就する菩薩行を実践するがよい。無礙自在に菩提をさとって、めでたい如来の道を体得するがよい」

さて、この経の委嘱については、金剛蔵菩薩が他の菩薩たちに向かって、つぎのように語りかける形で説かれる。

「わが菩薩たちよ、私は、この百千億兆阿僧祇劫かかって円満に成就された無上なる正しい菩提を、あなたがたの手に委嘱しよう。最高最上の歓喜をもって、委嘱しよう。されば、あなたがたすべては、このようにこの経を伝承していただきたい。他のひとびとに逐一、説法していただきたい。一言にして言うならば、わが菩薩たちよ、もし如来が、劫におよぶ年数のあいだ、日々夜々、不断に不思議力をはたらかせて、この経を賛美するとしても、この経の賛美が尽きることはけっしてない。そもそも如来のさわやかな弁舌が尽きることは、けっしてない。わが菩薩たちよ、いまもし、この経をよく理解するひとがあるとしよう。この経を記憶して伝承し、言葉で説き、書写し、書写をすすめ、すっかり自家薬籠中のものとし、その法輪を転じ、説法会においてひろく説法するひとびとがあるとしよう・・・あたかも如来の戒律、三昧、般若の知恵、自由な解脱、それをさとる知のさとりが無量無辺であり無限大であるように、まさしくそのように、そのひとびとのゆたかなる徳もまた、無限大である」


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