日本語と日本文化 | ||
HOME | ブログ本館 | 東京を描く | 日本の美術 | 日本文学 | 万葉集 | プロフィール | 掲示板 |
十地経を読むその八:第七はるか遠くにいたる菩薩の地 |
菩薩の十地のうち、第一から第六までと第八以降の間には飛躍的な差異がある。その飛躍を媒介するのが第七地である。第六地までと第八地以降とではどのような差異があるのか。薩の十地はすべて、さとりに導く諸徳を円満に成就することを目的としている。その諸徳の円満な成就は、第六地までは一定の条件のもとで可能になる。ところが、第八地以降においては、そうした条件なしに、菩薩がかくあれと願うだけで成就する。第六地までは修行者の色合いが強いが、第八地以降は、限りなく仏の境地に近づいている。第七地は、その前者と後者と、二つの境地の橋渡しをするのである。 そのへんの事情を、お経は次のように、頌の形で表現している。「菩提にみちびく諸徳が成就するのは、最初の地においては、誓願を思惟するからである。第二の地においては、垢れを除去するからである。その次の(第三の)地においては、まよいの存在への繋縛を絶つことによってである。第四の地においては、菩提にみちびく修行道があるからである。第五の地においては、世間のひとびとと平等であるままに生きていくからである。そして、知あるひとびとが第六の地にあるときには、あらゆる存在が不生である、とさとるさとりを得るからである。ところが、ここなる第七の地を体得するならば、菩提にみちびく諸徳を円満に得るために、あまたの種々なる誓願を実現する。そうなる理由は、こうである。かのひとびとは、この地にあるときに、不思議なる知のはたらきを体得するのである。そしてそれが、第八の地以上においては、あますところなく清浄になっているのである」 多少わかりにくい表現であるが、第七の地が、第六までの地と第八以降の地との境にあって、その橋渡しをしていることは理解されよう。 それゆえ、第七の地においては、第六までの地におけるさとりの内容を反復実現していることになる。その実現の内容は、十種のあらたなる菩薩道の実践と呼ばれる。「あらたなる」という言葉の意味は、これまでとは一段次元が高いということのようである。具体的には以下のごときものである。 (1)空であるがままの如性、個的実体のない如性、願求することのない如性をさとる三昧をみずからの心において修行し、円満にしている。 (2)あらゆる存在のうちに、自己なるものはない、衆生なるものはない、生命なるものはない、人なるものはない、人間なるものはない、と体得している。 (3)豊かな徳と浄らかな存在をますます向上させるために、もっともすぐれた菩薩行に、あらんかぎりの力をつくして努力する。 (4)あらゆる迷いの世界内存在~神々の広々とした禅定のそれも、乃至さまざまな欲望に垢れた衆生のそれも~を超脱して、自由自在になっている。 (5)あらゆる灼熱する煩悩の逼迫は、もはや究極的に寂滅し、静寂になっている。 (6)あらゆる存在が、幻、陽炎、夢、鏡の彫像、反響、水に映った月、影、変化術で仮作された対象のごとく、有なる自体もなく、無なる自体もなく、不二であることを理解している。 (7)あらゆる国土や道が虚空にもひとしいことを、心においてあますところなく思惟している。 (8)あらゆる諸仏は、その本性において、法そのものが身体であること(法身)を理解している。 (9)如来の音声なるものは、言葉としてはあらわれず、そもそも歌詠や音声ではなくて、本性において静寂であることを確信している。 (10)さいわいなる諸仏が、まったくの一瞬のうちに、過去・未来・現在の三世をさとってしまうことをよく理解している」 以上は、内容的には空の思想をベースにして、仏の実体は法が身体となった法身であること、それを理解することが悟りへの道を開くことになること、を説いていると見られる。 かくして、第七の地にある菩薩は、「みずからのさとりの智慧によって、仏のさとりたまう不思議なる存在を思弁する知を体得している」。第六までの地にある菩薩が、「大乗の真理にもとづいて、仏のもとなる不思議なる存在を願求するからであって、みずからさとりの智慧によって思弁するからではない」のと対照的である。この第七の地におる菩薩は、「大乗にいうすべてを知る知者の知の大海を航海する。もっともすぐれた菩薩行なる大船に乗って航海する。そこにおいて、究極の実在についての修行を行ずる」 このようなことが可能なのは、これまでの地においては広い道心があったのに対して、この地においては、不思議なる知があるからであると言われる。 さらにまた、第七の地にある菩薩は、以下のごとき不思議な境地に達する。 (1)輪廻のうちにすがたをあらわししめす。しかしそれにもかかわらず、涅槃へと向かう道心がある。 (2)あまたの仏弟子・菩薩・諸天たちに取り囲まれ、従侍される。しかしそれにもかかわらず、つねに絶え間なくさとって超然たる心を体得している。 (3)衆生を菩薩道に成就させるために、誓願の力をはたらかせ、あらゆるまよいの存在のうちに生まれることを実現する。 (4)静寂であり、すぐれて静寂であり、まったく静寂である。 (5)不思議なる仏知へ向かって進みゆく。 (6)仏知によってさとられる諸真理をうちに蔵する根源を体得する。 (7)四種の悪魔のはびこる大道を超越している。 (8)あらゆる他学派の師のもとにきたって、すがたをあらわし示す。 (9)あらゆる世間的な行いにしたがって、すがたをあらわす。しかしそれにもかかわらず、あらゆる世間を超越した真理を一如になってさとっている。 (10)あらゆる神々(天)、竜神(竜)、樹神(夜叉)、楽神(乾闥婆)、阿修羅、鳥神(迦楼羅)、半人半獣神(緊那羅)、大蛇神(摩睺羅伽)、人非人神、帝釈天、梵天、四天王をはるかに超絶するうるわしい芸術美をあらわし出すようになっている。しかしそれにもかかわらず、あらゆる仏の真理をよろこぶ思惟を忘れるわけではない」 第七の地にある菩薩は、他化自在天王となる。自由自在にはたらきをなして、衆生のもとに、根本の真理をさとる智慧をもたらし、あらゆる教えを聞いてさとる仏弟子やひとりでさとる仏弟子からの論難に、無際限に説明解釈してゆく。そして衆生をして、みずからたしかに菩薩であると確信させる妙を極めている。 なお、第七の地が「はるか遠くにいたる菩薩の地」と呼ばれる理由を、お経はストレートには説明していないが、修行の段階を超えて、仏の境地にかぎりなく近づいていることをさして、このように言っているようである。 |
HOME | 仏教と日本人 | 仏教経典 | 十地経 | 次へ |
作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2008-2021 このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである |