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十地経を読むその五:第四光明に輝く菩薩の地


菩薩の十地の第四は「光明に輝く菩薩の地」である。第三地から第四地に進みゆくにあたっては、十種のあらゆる存在についての光明(十法明門)を体得する。その十種の光明とは次のようなものである。
(1)あらゆる衆生をあらしめる衆生性(衆生界)をさまざまに思惟する光明
(2)あらゆる世界をあらしめる世界性(世界)をさまざまに思惟する光明
(3)あらゆる存在をあらしめる存在性(法界)をさまざまに思惟する光明
(4)空間をあらしめる空間性(虚空界)をさまざまに思惟する光明
(5)識をあらしめる識性(識界)をさまざまに思惟する光明
(6)欲望をあらしめる欲望性(欲界)をさまざまに思惟する光明
(7)物質のみが存在する禅定性(色界)をさまざまに思惟する光明
(8)物質も存在しなくなった禅定をあらしめる禅定性(無色界)をさまざまに思惟する光明
(9)広大な道心による信仰をあらしめる信仰性をさまざまに思惟する光明
(10)大乗の真理のままなる道心による信仰をあらしめる信仰性をさまざまに思惟する光明

第三の地が「光明であかるい」と呼ばれたのは、まよいを離脱して如実なるままに思惟することが、あたかも垢れのない光明に満ちた境遇に譬えられていたのに対して、第四の地が「光明に輝く」と呼ばれるのは、それよりも一歩進んだ積極的な状態が、単に明るいばかりでなく、光り輝いていると言っているわけであろう。

「光明に輝く」菩薩の地にあっては、かの菩薩は、如来の家系にあって如来その人でもある存在を得るようになるが、それは、十種のさとりの智慧を円熟させる実践があるからである。その十種とは以下のものをいう。
(1)もはや退転することのない道心がある。
(2)仏と仏の法と仏弟子の僧団との三宝を壊滅させてはならないとの信仰心が究極にまで深まっている。
(3)まよいのはたらき(諸行)が生成しては滅亡することを禅定において思惟している。
(4)なんらかの実体があるものが生起するのではないこと(自性無生)を禅定において思惟している。
(5)衆生ひとりひとりの世界が生成しては滅亡していることを禅定において思惟している。
(6)彼らの業の果としてのまよいの存在が六種のまよいの世界に生まれることを禅定において思惟している。
(7)輪廻の存在と涅槃の存在について、禅定において思惟している。
(8)彼ら衆生を仏国土にあらしめるべく仏のはたらきがはたらいていることを、禅定において思惟している。
(9)彼らがはじめにまよいの存在であり、のちにさとりの存在であることを、禅定において思惟している。
(10)しかも、さとりの存在が生ずるのでもなく、まよいの存在が尽きるのでもないことを禅定において思惟している。

これら十種の思惟は、存在についてしずかに念う思惟(四念処)を通じてなされる。四念処とは(1)身体的存在、(2)感情、(3)心、(4)その他の諸存在について、しずかに念うことをいう。

かくてこの地にある菩薩は、正しい思惟(正思惟)を修行しつつ体得する。そのさまを頌は次のようにうたっている。「このようにさとりの智慧を修行しつつ体得していく。(1)衆生に恵みを与える行いにかぎりない関心を寄せ、
(2)誓願が彼の存在の根本となり
(3)慈悲があらゆる行いのまっさきにあり
(4)慈しみふかく
(5)すべてを知る知者の知を求道してやまず
(6)仏国土について、思惟を深め
(7)もっともうるわしい知力、ゆるぎない説法、大師のくらぶるものなき仏徳、うるわしい仏身と音声を求道してやまず
(8)さらにさらに上なる道について思惟を深め、
(9)不思議に奥深い宝石のような道と自由な解脱の位とを修行しつつ体得していく
(10)大いなる方便をさとるためにこそ」

かくして、「身体がほんとうの自我であるという観念も、六十二種の諸観念もなくなっている。自我と自我の所有、そしてさまざまな生命あるものの観念もなくなっている。また、まよいの存在、そして認識する存在という、これらまよいに縛られた存在の基礎は、すべてやんでしまっている。知あるひとびとが第四の地にあるときは」

つまり、第四の地にあっては、自我を含めたあらゆる存在についての観念がなくなるというのである。存在からの超脱が、この第四地のテーマといえる。第三地までは、垢れからの離脱がテーマだったわけだが、この第四地にいたって、垢れのもとである存在そのものが超脱の対象となるわけである。

「かの菩薩が、このような『光明に輝く』菩薩の地にあるときに、何劫ものあいだ、何百劫ものあいだ、何千劫ものあいだ、何百千劫ものあいだ、何百千億劫ものあいだ、何兆劫ものあいだ、何百兆劫ものあいだ、何千兆劫ものあいだ、何百千兆劫ものあいだ、何百千億兆劫ものあいだ、道心も、さらに深い道心も、信仰心も、あらゆる仏や菩薩の心と平等にあり、清浄にありつづける」

この地にある菩薩は、「須夜魔天王」となる。それは神々のうちの大王である。


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