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十地経を読むその三:第二垢れをはなれた菩薩の地


菩薩の十地の第二は「垢れをはなれた菩薩の地」である。第一の地を成就すると、かの菩薩には十種の道心が現前する。すなわち、(1)誠実なる道心(正直心)、(2)柔和なる道心(柔軟心)、(3)無碍自在なる道心(堪能心)、(4)練磨された道心(調伏心)、(5)静寂なる道心(寂静心)、(6)うるわしい道心(純善心)、(7)純一無雑なる道心、(8)無欲恬淡なる道心、(9)広大なる道心、(10)大乗の真理のままなる道心(大心)である。

これら十種の道心を現前させた第二の地が「垢れをはなれた菩薩の地」と呼ばれるのは、十種の悪=垢れを除去し、十種の善なる実践道(十善行道)を体得しているからである。十種の悪とは、(1)殺生、(2)与えられもしないものを自分のものにすること、(3)愛欲におぼれた邪淫な行為、(4)虚偽、(5)誹謗・中傷、(6)粗暴な言葉、(7)華麗な言葉をまくしたてること、(8)貪欲、(9)いらいらすること、(10)あやまった信念。これらの悪なる実践道に耽溺し反復するならば、地獄、畜生、阿修羅に堕ちる原因となる。

これに対して十種の善なる実践道とは、十種の悪の実践道と正反対のことである。すなわち
(1)生きものを殺生することが全くない(遠離一切殺生)
(2)与えられもしないものを自分の所有物とすることがない(不偸盗、不与取)
(3)愛欲におぼれて邪淫なる行為をすることがない(不邪淫)
(4)虚偽を言うことがない(不妄語)
(5)誹謗・中傷を言うことがない(不両舌)
(6)粗暴な言葉を言うことがない(不悪口)
(7)華麗な言葉をまくしたてることがない(不綺語)
(8)貪婪なることがない(不貪欲)
(9)いらいらした心がない(離瞋恚)
(10)正しい信念がある(離邪見)
これら十種の善なる実践道を成就するならば、究極において、「十の不思議なる知力が実現され、あらゆる仏にふさわしい徳が体得され、実現されることになる」。それのみではない、菩薩自身が垢れをはなれ、仏にふさわしい徳を体得するばかりでなく、衆生をも垢れからはなれさせる。「自由自在にはたらきをなして、衆生の悪行の垢れを除去し、そして不思議なる巧妙さをもって、衆生がつねに善なる実践道をふみ行うようにする」のである。

このことをお経は、頌の形で次のように歌っている。「この地にあれば、仏子なる菩薩たちは転輪の王となって、十種の善なる実践道を行うように衆生を指導する」。転輪の王は転輪聖王ともいい、民を法に導く王者という意味である。第一の地にある菩薩は単に「大王」と呼ばれていた。それが第二の地においては、「転輪聖王」に高まったわけである。

第一地があくまでも、さとりに向かって求願した状態であるのに対して、この第二地は、一歩踏み込んで、さとりに向けた実践について述べている。その実践をここでは、「善なる実践道」と呼び、人間が陥りがちな「悪なる実践道」と対比させながら説いているわけである。

ポイントは、大乗の教えらしく、自分のみならず衆生の救済も併せて説いていることである。頌ではそのことを次のように歌っている。「このような功徳に満ちた多数の神通力をば、雄々しいひとびとはあらわし示す、この地にあるときに。もしこれよりもさらにすぐれて誓願と智慧の力を体得するのであれば、無数の種類の変化を自由自在にあらわして、衆生を救済する」


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