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八千頌般若経を読むその四:常諦菩薩の求法


「八千頌般若経」の第三十章は、常諦菩薩の求法をテーマとしている。大乗経典の多くは、菩薩が悟りをもとめて旅する模様を描くのであるが、この「常諦菩薩の求法」の章はその原形となるものである。ここでは、般若波羅蜜を体得したものとしてダルマウドガダ菩薩が設定され、その菩薩の導きによって、さとりを得ようとする常諦菩薩の旅が描かれる。修行者としての菩薩が、先輩の菩薩の導きによって、さとりの境地に達するという構成になっているわけである。

まず、常諦菩薩とはだれか、ということが説かれる。常諦菩薩は、かつて熱心に般若波羅蜜を求め、その結果それを体得したのであったが、その常諦菩薩が求法したとおりに求法すれば、誰しも般若波羅蜜を体得してさとりを得ることができるであろうと説かれる。要するに常諦菩薩は、これから菩薩道を実践しようとするものにとっての、手本でありモデルなのである。

その常諦菩薩は、般若波羅蜜を求めるとき、身体をおしまず、生命を顧慮せず、利得と尊敬と名誉とを拠り所とせずに求めた、のだとされる。しかも、「一切の存在(法)は空であり、形のないもの(無相)であり、願わるべきでないもの(無願)と信解して、般若波羅蜜を求めるべきである」という世尊の命に従って誠実に行動し、般若波羅蜜を得たのである。

世尊は、単に常諦菩薩に命じるだけではなく、如来たちを通じて、先輩の菩薩であるダルマウドガダ菩薩を三昧のうちに顕現させ、その説教の様子を見させる。その様子を見た常諦菩薩は、感激して、是非直接ダルマウドガダ菩薩にお会いして教えを乞いたいと思う。そこで常諦菩薩は、ダルマウドガダ菩薩のいるガンダヴァティーをめざす。その途中、少年とか富者の娘と出会うのである。

少年は、シャクラ(帝釈天)が化けたもので、常諦菩薩の決意の固さをためそうとしたのだった。常諦菩薩は、ダルマウドガダ菩薩に会うについて、手ぶらでいくのもどうかと思い、貴重な宝物を手土産に持参したいと思った。だが土産を買う金がなかったので、自分の体を売って金を作ろうと思った。そこへ少年が現れて、常諦菩薩の体を金で買い、菩薩の血や肉を差し出させようとする。その様子を見ていた富者の娘が、そんなことをせずに、わたしが宝物を用立てしましょう言う。その言葉を聞いた少年は、実はこれは常諦菩薩の決意をたしかめることを目的にした戯れなのだといって、消え去ってしまう。

かくて、常諦菩薩と娘とは、大勢の寺社や娘の父母を伴って、ダルマウドガダ菩薩のいる東方をめざした。目的地に着くと、ダルマウドガダ菩薩が待っていて、七つの宝でできた楼閣を用意し、その楼閣の中に、般若波羅蜜を収めた箱があった。その般若波羅蜜とは、「黄金の紙に、溶けた瑠璃で書かれてあり、ダルマウドガダ菩薩が七つの印象で押印して、この楼閣の中央に安置して」あるという。つまりここでは、般若波羅蜜はお経を記した書面のようなものとイメージされているわけである。

いよいよダルマウドガダ菩薩に対面した常諦菩薩は、次のように言う。「善男子よ、この私は、あなたにお尋ねします。かの如来たちはどこから現れたのでしょうか。またどこへ去られたのでしょうか。善男子よ、どうか私達に示してください。それによって私達は、如来の現れたところ、去られたところを知るでありましょう。またそれによって私達は、如来を見ることを離れないでしょう」

ここで如来のことが言われているのは、かれらが常諦菩薩を三昧に導き、その三昧の中で、ダルマウドガダ菩薩を顕現させたからである。

この章はここで終わり。常諦菩薩がどのようにして般若波羅蜜を体得し、またそれがどのような内容のものであったかについては触れられていない。だからこの章は、般若波羅蜜を求める菩薩の旅をもっぱらテーマにしているものと考えることができる。


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