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法華経を読むその二十八:普賢菩薩勧発品


普賢菩薩は、文殊菩薩と並んで釈迦仏の脇侍として仕え、いわゆる釈迦三尊を構成する。通常は、文殊菩薩は獅子に乗った姿、普賢菩薩は白象に乗った姿で表される。文殊菩薩と獅子の結びつきは維摩経などに見え、普賢菩薩と白象の結びつきは、法華経の「普賢菩薩勧発品」において具体的な形で語られる。その法華経のなかでは、文殊菩薩は冒頭の序品から登場して、経全体にわたって随所で重要な役割を果たす。一方普賢菩薩は、最後の章である「普賢菩薩勧発品」に登場して、法華経全体を締めくくる役割を果たす。

文殊菩薩は、文殊の知恵といわれるように、智慧を体現している。一方、普賢菩薩は、仏教的な真理を体現しているとされる。普賢菩薩は、釈迦亡き後の濁世においても、法華経に説かれている真理を衆生に広めるのである。かれが白象に乘っているのは、法華経を受持する者を励ます時や、法華経の教えに迷いを生じている者を正しく導くために、その者らの前に白象に乗って示現するためなのである。

普賢菩薩は、もともと東方世界に住んでいた。それが大勢の菩薩を伴なって娑婆世界にやってきたのは、釈迦仏の滅後のことが心配になったからだった。普賢菩薩は釈迦仏に向って問う、「若し善男子・善女人あらば、如来の滅後に於て、云何にしてか能く是の法華経を得るや」。釈迦仏の滅後に於て、善男子、善女子が法華経を受持して衆生を教化するには、どのようなことが必要なのかを尋ねたのである。

これに対して釈迦仏は、四法を成就すれば、仏の滅後においても法華経の教えを得ることができると答える。四法とは、①諸仏に護念せられること、②諸の徳本を殖えること、③正定聚に入ること、④一切衆生を救う心を発すこと、である。このうち正定聚とは、仏教の人間類型の一つであって、正しい信仰をもって揺るぎのない人を言う。これに対して、邪定聚とは邪念にとらわれている人、不定聚とは信念の定まらない人を言う。

釈迦仏の言葉に対して、普賢菩薩は衆生教化に向けた自分の抱負を述べる。「世尊よ、後の五百歳濁悪世の中に於て、其れ是の経典を受持する者あらば、我は当に守護して其の衰患を除き、安穏なることを得せしめて、伺い求むるに其の便を得る者なからしむべし」。つまり法華経を受持する者の守護者となると宣言したわけである。

普賢菩薩はさらに言う、「是の人、若しくは行き若しくは立って、此の経を読誦せば、我はその時に六牙の白象王に乗りて、大菩薩衆と倶に其の所に詣りて、自ら身を現わし、供養し守護して、其の心を安慰せん。亦法華経を供養せんが為の故なり」。以下、法華経を受持する人を励ますために、六牙の白象に乗って示現せんとの決意が繰り返される。ここから普賢菩薩と白象との強い結びつきが、視覚的なイメージとして確立されることとなった。

続いて普賢菩薩は、陀羅尼呪を披露する。陀羅尼呪の功徳については、すでに「陀羅尼品」の中で詳しく説かれたところだが、ここでは普賢菩薩独得の陀羅尼呪が披露される。これも、鎌田茂雄の「法華経を読む」にしたがって、小林一郎著「法華経大講座」の中の日本語訳を紹介しておこう。曰く、「無我、除我、方便、仁和、甚だ柔軟、甚だ柔弱、苟見、諸仏廻、諸総持廻、衆に行じて説く、皆廻転す、悉く集会する、衆趣を除く、無数、諸句を計す、三世の数等し、有為を超える、諸法を学ぶ、衆生の音を暁る、獅子娯楽」

この陀羅尼を称えることによって、法華経を広める堅固な意思が強められる。普賢菩薩は言う、「世尊よ、若し菩薩ありて、是の陀羅尼を聞くことを得ば、当に知るべし、普賢の神通の力なることを。若し法華経の閻浮提に行わるるを受持することあらば、応に此の念を作すべし、皆是れ普賢威神の力なりと。若し受持し読誦し正しく憶念し、其の義趣を解して説の如く修行することあらば、当に知るべし、是の人は普賢の行を行なえることを」

ここで、普賢の行と言っているのは、真理を追究するという意味である。普賢菩薩は仏教的な真理の体現者なのである。

ともあれ、普賢の行を行して真理を体得した人には、大きな功徳がある。それを普賢菩薩は次のように表現する。曰く、「若し人ありて、受持し読誦し、其の義趣を解さば、是の人命終するとき、千仏は手を授けて、恐怖せず悪趣に堕ちざらしめたもうことを為、即ち兜率天上の弥勒菩薩の所に往かん。弥勒菩薩は三十二相ありて、大菩薩衆に共に圍遶せられ、百千万億の天女眷属あり。すなわち中に於て生まれん。是の如き等の功徳利益あらん」

弥勒菩薩は、釈迦の滅後に、次の仏となって娑婆世界に現れるとされる仏の前身である。その弥勒菩薩は、兜率天に住んでいる。兜率天とは、輪廻の世界にあってもっとも素晴らしい世界と思念されている。死後そこへ行って、弥勒菩薩に逢えることは、成仏するための偉大な因縁となる。

こうした普賢菩薩の決意に、釈迦仏は大いに感心し、次のように言って励ました。曰く、「普賢よ、若し是の法華経を受持し読誦し正しく憶念し修習し書写することあらば、当に知るべし、是の人は則ち釈迦牟尼仏に見えて、仏の口より此の経典を聞くが如しと。当に知るべし、是の人は釈迦牟尼仏を供養したてまつるなりと。当に知るべし、是の人は仏に、善い哉と讃めらるるなりと。当に知るべし、是の人は釈迦牟尼仏の手をもって、其の頭を摩でらるることを為んと。当に知るべし、是の人は釈迦牟尼仏の衣に覆わるることを為んと」

以上を釈迦は説いたのであったが、その時に、「恒河の沙に等しき無量無辺の菩薩、百千万億の旋陀羅尼を得、三千大千世界の微塵に等しき諸の菩薩は、普賢の道を具し」たのであった。また、釈迦仏の言葉を聞いていた者は、みな大いに歓喜し、仏の言葉を受持して、礼をなして立ち去ったのであった。それぞれが、法華経の教えを受持しながら、それを衆生に広げるためであろう。ともあれこれを以て、法華経全巻は終るのである。



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